戸籍簿と競争する by Émile Zola
ゾラは、両親の人となり、家庭環境が分かればその人の一生を描くことが出来ると豪語した。親からの遺伝(当時流行の遺伝学)と社会経済的環境がその人間の一生を決めるというのだ。
まぁ一理あるように思える。運動神経や肉体的特徴など目に見える側面ばかりか、性格や気質も「親譲り」はそれなりに認められるよだからだ。〈近代の遺伝学への異論はまた別の機会にでよ。〉
社会経済的環境も、階級社会でなくたったとは言え、新たな経済階級に影響されたり、東アジア特有の縁故主義なんかにも大きく左右される。
確かにこの二つの要素で人の一生が決まるように見えようとも、植物や動物がそれで説明できたとしても、とても大切な次の要件を忘れている。それは人間の意思だ。この三つ巴が人間の多様性を構築してゆく。それは動植物の比ではないのだ。
遺伝だけでも環境だけでもない。人間という生き物に固有の意思や努力が人間の固有性や多様性を創り上げている。
人の遺伝と家庭環境と努力だけに還元するなら、それは「自己責任論」という自公政権の望む言説となろう。
確かに人の意思や努力には限界がある。だかそれはすぐさま「自己責任論」に帰着するものでもない。国家社会の制度がどれほど人びとの意思や努力を挫いていることか。
ヴィーコは「数学的知識以外の知識はあり得ない」というデカルト派の認識論に反対し、学問に必要なのは認識可能なものと不可能なものを区別する原理であると考えた。その原理とは「真理と事実とは置換できる」、つまり、精神がある対象を理解するためには、その対象が人間精神によってすでに作られていなければならない、ということだった。
数学は人間の作り出した仮説であり、歴史は人間の「行為事実」が無から作り出すものであるから、両方とも認識可能な事柄である。こうして歴史は、明確な認識を生みうる学問として数学と並ぶ地位を与えられた。(以上、wikiより)
ヴイーコが言いたかったのは簡略化すれは、人間の作っものは人間が解決できるということだ。(簡略化し過ぎ?😓)
遺伝的もの個人の多様性や固有性、例えば足が速いとか、球技が上手いとか、数学が得意、絵が上手い、絶対音感を持つなどは、他者が容易に変えうるものではないけれど、奨学金をチャラにしたり、警察の取調べに弁護士を同伴させたり、子育て費用をゼロにしたり、政治家の改憲論は憲法違反と断罪しり云々は、人間の手で変えることができる。
ついでに書いておくと、マイナンバーを政府は大金を使い躍起になって普及させようとしているけれども、その前に戸籍制度を廃止するべきである。戸籍制度こそ家父長制の温床であるのは、例えば「戸主」概念一つを見ても分かる。給付金が個人ではなく戸主に配られたことで、多くの問題点が明らかになった。
DVで逃げている女性に届かない不都合が頻発したし、現住所さえあれば好いのに本籍地などを記載させるから差別問題も起こる。
とにかく戸籍などは韓国も廃止し(植民地時代の遺物だ)、残るは台湾と日本のみ。(台湾も日本の植民地化の産物)
マイナンバー制度の前にするべきことは、住民基本台帳も含め、たくさんあるだろう。中抜き企業のためにだけする政治は早く終わって欲しい。
打倒天皇制、打倒自公維新政権。
自民党がこれで壊れなきゃおかしいんだけどな。