『「戦後」ゼロ年』 by目取真俊
目取真はいまだ「戦後」は訪れてないと語る。沖縄の現実を見れば、それもさもありなん。
彼は日本のメディアが3つのタブー(天皇、創価学会、自衛たいを作ったことに大きな問題があると。
詳細は忘れたので彼の問題提起に従い日本のメディアのタブーを上げてみよう。
天皇制、自衛隊(軍隊)、警察(検察、裁判官、弁護士)、公明党(創価学会、統一教会)、官僚制(特別会計、学歴主義)など。
これらに対する批判は、メディアが徹底して避けてきたものだ。
ヒロヒトを処刑せず戦犯政治家を返り咲かせたことを、メディアは批判して来たか?
今や共産党までが天皇制と自衛隊を認めているという体たらく。ヒロヒト一族をガキでも様づけ、識者には氏、一般市民はさんづけ、アスリートや芸人は呼び捨て。現代でも天皇に「陛下」なんて語をつけている識者や「文化人」の見識のなさに呆れる。
日本語の敬称は序列化されている。呼び掛け語もそうだ。「お前呼ばわりする」という常套句が含意しているのは「お前」が蔑称だということ。上司が部下を、男性が女性パートナーを、親が子どもを、教師が生徒を「お前呼ばわりする」のは相手を侮蔑していることを意味する。
自衛隊は違憲である。さらに人殺しの訓練をする組織たる軍隊隊ほど野蛮な組織はない。死刑同様にこんな組織を有するなんてとても21世紀とは思えない。
日本の警察や検察の取調べには弁護士同伴が許されず、完全可視化からもほど遠い。独裁政権並みの司法制度だ。
ゆえに冤罪は創り放題。
警察検察裁判官がグルなのは衆目の認めるところだとしても、それを戦後ずっと許して来た弁護師にもその責任はある。
弁護師協会に属さないと弁護活動ができないなんて中世的ギルドかと思ってしまう。弁護師宇都宮某はその代表になるに当たって弁護師の数を増やさないというスローガンを掲げて当選した。既得権益を守るためには数を制限しておくということで、これも弁護師どもの不甲斐なさの一端を示している。
ちなみに看護婦の世界に男性が入って来た時、「看護士」という語が使われたけれども、「士」がサムライつまり男性をコノートするところから「看護師」なる表記に落ち着いたとか。なら、「弁護士」はいつ「弁護師」になるのか。或いは「女性」弁護師も含め男性至上主義を内面化し「弁護士」で問題無しと考えるのか。
公明党と創価学会との関係は周知のことなのに、政教分離の問題はずっとスルーされて来た。山口那津男が最近統一教会のことを聞かれてノーコメントと答えたらしいけど、それをそのまま報道するメディアの堕落ぶりも凄いけど、さらに突っ込んでノーコメントを許さない姿勢の皆無なのにはほとほと呆れる他ない。
統一教会のことは吉田茂の時代から問題だったのに長い間タブー視して放置して(させられて)来たから今回のような事件が起こったとも言える。
立憲の有田や弁護師江川があれこれもっともらしいことを言ってるけど、まずはそれまで知っていて問題化しなかった自分たちの怠慢の罪深さを明らかにすることから始めるべきではないのか。
メディアのタブー創造の共犯性を野党政治家や弁護師は自覚すべきなのだ。
政治家の石井紘基は特別会計に手をつけて暗殺されたともっぱらの噂。いやその噂さえほとんどメディアは隠蔽して来た。安倍殺害の十分の一も報道したか、追及したか。むしろ白書テロの部類に属すべき事件だろう。
官僚制内部の学歴主義も、昨今の官僚の出来の悪さを見ればその限界というかデメリットも言をまたないだろう。学閥とか派閥とかとかく「閥」を造りたがる社会の病巣は目を覆わんばかりだ。
安倍以降の日本の政治の劣化は戦後処理の失敗に因がある。ヒロヒトを処刑せず戦犯政治家を返り咲かせたこと、サンフランシスコ講和条約で朝鮮や中国という戦勝国を「第三国」としたこと、これらのツケが今が回って来たのだ。
天皇に「陛下」なる尊称をつける識者や「文化人」ほど有害なものはない。
私たちの周囲にはメディアをはじめとする戦後を無化する文化装置に溢れている。
「お前呼ばわり」されるのに違和感や侮辱を感じないとすれば、私たちはあまりにも「お前」と侮辱されることに慣らされており、だからもはやそれが侮蔑であるとは思えないまでになっていることであり、そんなところに人権意識や主権意識など醸成されるはずもなく、民主主義なんて画餅に終わるのがオチだろう。
目取真は戦前戦中には「朝鮮人、琉球人、アイヌはお断り」とい張り紙が飲食店などに見られたと述べていたけど、私たちはそこから抜け出して「戦後」を構築出来たと言えるだろうか。「戦後」はまたゼロ年ではないだろうか。
マッカーサーは日本人の精神年齢を12歳だと、言ったらしいけど、日本臣民は13歳になれたろうか。大人にはほど遠い臣民はせいぜい13歳くらいが妥当なのではないか。
メディアに言論の自由なんて戦後もあった試しがない。むしろヒロヒトと戦犯政治家に協力して、つまり戦前と変わることなく、「戦後」のゼロ年化に腐心して来たのではないか。
メディアという文化洗脳装置に抗って反民主主義たる差別意識を克服し、主権意識や人権意識を十分に身につける日がくるのだろうか、それともこの日本列島には永遠に不可能なことなのだろうか?