『ささやかだけれど、役にたつこと』を読む
レイモンド・カーヴァーの短編『ささやかだけれど、役にたつこと』について書く。本稿はすでに『ささやかだけれど、役にたつこと』を読んだことがある人を対象にしている。
物語の骨格
カーヴァーはこの小説を書く際に、普段は接近することのない二つの人間の層を念頭に置いた。ひとつは落ちぶれたみじめな生活を送りながら、親しい人もいない孤独な人達。もうひとつは学歴・仕事・結婚すべてについて人並み以上の成功を収めて、順風満帆の人生を送る人達だ。
後者の人たちの目には前者の人々の人生がなかなか目に映らない。実際には彼らは私達のすぐそばにいて、毎朝駅のホームやコンビニエンス・ストアの中ですれ違っているのかもしれないのだが。あるいはバスの運転手やファーストフードの店員として、くりかえしサービスを受けているのかもしれないのだが。
おそらくカーヴァーはこの甚だしい断絶に、日々おののいていた。遠く隔たった二つの世界が物理的にはごく近くにあるということの異常性に、日々おののいていた。多くの人達がまだら模様の世界に放り込まれて、けれども何食わぬ顔で隣り合ったまま日常を送っているという不思議さに、くりかえし撃たれていた。だから自分は何としてもそれを書かねばなるまい。そう思ったのである。
交わらない二つの層というコンセプトはそのまま物語の構成に表れている。小説は終始、アンとハワードの視点で進んでいく。パン屋はカメラに入ってこない。そう、幸福な人達の目に不幸な人達は入ってこないのだ。アンは自分がした約束を忘れてしまっている。もちろんその間もパン屋は呼吸をし、夜にパンを作り、それを昼間に売り続けている。その間もアンが注文したケーキは刻々と腐っていっている。日々の様々な出来事が彼の心を少しずつ削り取っているに違いない。そしてこれらのすべては、読者の目に見えてこない。パン屋については一切書かれていないからだ。我々読者には本当にパン屋の姿が見えていない訳であるが、その「見えてなさ」は、そのままアンとハワードの普段の視点のあり方と重なっている。作家は巧みな構成力によって、登場人物の視点を我々読者の視点と一致させることに成功している。
しかしそのように隔絶した二つの世界も、最後には交錯し和解へと至る。それは大きな犠牲なしでは達成しえない和解だった。
犠牲、仕事
最後の場面の重要な点を二つ指摘する。
まず、彼らは犠牲を交換している。パン屋は注文を反故にされ、ケーキは損なわれてしまった。夫妻は愛する息子を失った。つまり、より低い世界にいる側が小さな犠牲を払い、より高い世界にいる側が大きな犠牲を払う、という構図になっている。そうすることで初めて両者の位置は近づいていけるというのが、カーヴァーの考えなのだ。
もう一つは、仕事ということだ。社会にとって日常的・継続的に必要とされる種類の仕事が、大きく肯定されているという点に我々は心を留めておきたい。パン屋はこれまでの人生の中で己を犠牲にして仕事を続けてきた。冷たい怒りが彼の底にたまっている。しかしそれは、より切実な痛みと怒りによって吹き飛ばされることとなった。子供を失ったばかりの女性を前にして、そのような泣き言を言えるはずがない。逆の見方をすれば、彼は今こそ溜めてきた自身の恨みから解放されて、真実ひとに尽くすことができる。最後の場面が我々の心を打つのは、おそらくこのようなメカニズムによるものだろう。