虚構 その12
「愛美、物理また赤点ギリギリだったの?」
昴に呆れられながら、また叱られた。
「だって、仕方ないじゃんっ! 昴みたいに理系科目得意じゃないもん」
昴のクールな瞳が、ぼくの瞳に向かってほんの数ミリ瞳孔が開くように見えた。
「愛美、来年受験なのにふらふらしてていいの?」
「共テで併願するんだったら文系科目だけじゃなくて、ちゃんと最低限理系科目も抑えないと厳しんじゃないの?」
矢継ぎ早に諭されている自分が恥ずかしくなってくる。昴の美しい瞳を眺めていたいのに、ぼくはさっきよりもなお顔を背けている。
「この前おすすめした物理基礎と数1の参考書は解いた?」
駅前の大型書店に入ったら書棚に居並ぶ参考書たちの背表紙が、ぼく自身に背を向けている様にを感じられ"やっぱり帰ろうか?"、"いや昴と同じ大学に入りたいっ!こんな手前で何を迷ってるんだ、頑張らないと…!
…さんざん迷って買ったまま部屋の机においたままの2冊の輪郭が、頭の中にぼんやりと立ち昇る。
「…」
「ほら。だから、ふらふらって言ってるの!
わたし、これから自習室に戻って講師に質問してから解きたい問題集があるから、またね!」
さっと立ち上がりタイルカーペットに置いていた黒のリュックを背負った昴は、ヤングコーナーから颯爽と出て行った。
相変わらず小学生たちが人生ゲームで盛り上がっていて、今鼓膜に伝わる声の数々は騒がしいはずなのに、まるで夕日の光だけが教室で居並ぶ机に影をつくって遠く運動場から聴こえてくる野球部の掛け声が室内の空気を微かに揺動させていて、ほとんど静まり返った放課後のように感じられる。
ぼくの今の学力から逆算すれば、昴の言う通り今基礎をしっかり固めておかないと、どう考えても共テ利用での受験すら厳しい現状をわかっていても、好きな本人からあれだけ厳しく現実をまざまざと並べられるとさすがに気を落としてしまった。
さっきまで昴の座っていたヤングコーナーの木製のテーブルに座り直して、ただぼんやり"もし昴と付き合えたとしても、喧嘩が絶えないかもな…けれど、大学に入ったらいつか同棲してみたいなぁ"など、取り留めのない想念がぐるぐると頭の中で渦巻いている。
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しばらく呆然していたが、ふたたび目を周囲に向けると、さっきから向かいの机に座って一心に24色入り光友鉛筆のアルミ製ケースを机の右端に置いてスケッチブックに絵を描き続けている中学生くらいの子がぼくの目に留まる。
「何描いてるの?」
何にも考えず、その子に声を掛けていた。
一度目は、無視された。
もう一度こんどは両腕に殆ど隠れているその絵が本当に気になってその子に問いかける。
「ねぇ、何描いてるの?」
「え?」
形容すらできないほど集中していたのか、呆気にとられた様な生返事をぼくに返してきた。
「とっても集中してるから、何描いてるのか、つい気になって…」
「あぁ」
まだ集中の糸が緩みきってないのか、曖昧な返事をしてくる。
「何描いてるのか見せてよ」
「やだよ、てか誰?」
「アイミーって呼ばれてる。」
「きみはなんて呼ばれてる?」
はじめてちゃんと顔をこちらに向けたその子は、
「ヒロ、かユウタ」
と、ぶっきらぼうに答える。
「なんでフルネーム…笑」
きっとした表情でその子は、こう答えた。
「ちげーし、"ヒロタ"じゃなくて"ヒロ"か"ユウタ"だって!」
その子が反射的に腕を動かした瞬間チラッとだけ見えた、殆ど完成している絵が息を呑むほどあまりに美しく一瞬だけ黙ってしまった。
「あーわりぃーわりぃー笑! ユウタね!」
そう答える間もなく、
「ユウタ」
と誰かから名付けてもらったその子は、また黙ってスケッチブックに向かっていた。
「完成したら見せてよ」
「嫌だよ」
顔も上げずユウタは描き続ける。
「ユウタって呼んでもいい?」
「勝手にしたらいいじゃん、ってか、なんだっけ?名前」
「アイミーって呼んで」
一瞬だけふたたび皺を寄せたままになった額の下に居並ぶ瞳をぼくに向けて
「アイミーね」
と、静かに返してきた。
「ユウタ、またね」
ユウタは、黙々とスケッチブックに向かったまま、声を出す代わりに黄土色の鉛筆を持った右手を上げていた。
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さっきまで昴の座っていた机に戻ってしばらく学校の課題の続きをしていると、17時を告げる館内音楽が朗らかな調子で流れてきた。
すこししてカウンターに"ガーセ"が数冊の本を持ってやって来るのが見えて、リュックも置いたまま急いで机を立ってカウンターに向かう。
「ねぇ、ガーセ!聞いて〜」
「なに〜笑?どうした?
わたし今引き継ぎ終わったとこだから、ちょっと待ってよ~」
「はぁーい」
ガーセにそう返事をしつつカウンター越しの窓の外に目を向けると、艶やかな白い幹と茶褐色の枝を空の方へと伸ばした木々が夕日を浴びて静かに街路に影を作っていた。
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つづく
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