虚構 その7
僕は今、ひとり帰りの電車に揺られ今日も儚げに映るマンションや家々にともる灯りひとつひとつを車窓越しに眺めている。
ゆっくり加速するこの電車が、
レールとレールの繋ぎ目を通過してゆくごとに響かせる"カタン・コトン"という軽やかで落ち着いた音色とともに、学生時代に一度だけ友人の家で観せてもらったコンサート映像の中でセロニアス・モンクが演奏していたLulu's back in townのピアノの旋律が、頭の中で反復しはじめ僕は"今日一日"を反芻した。
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僕と長瀬さんは"珈論琲亞"に入ると、年老いた店主とともにまるで長い年月をかけてお客たちが交わした言葉のひとつひとつを染み込ませたようなニス塗りの木製テーブルが置かれた座席に腰掛けた。
「長瀬さん、今日はどうだった?」
「ヤング・コーナーのことですか?」
「そうそう!」
「あ、今日は…いつも大体決まった時間に来る中学生の男の子が観に行った展覧会で"お気に入りになった絵"をわざわざ画集を広げながら見せてくれて、それがどれだけ素敵で感動したのか、わたしに教えてくれましたよ!」
…そういえば長瀬さんは誰かが自らに対しておこす"ある言動"を、別の誰かに伝えようとする時
"何々してくれた"
と、いつも表現する。
今、目の前に座っている"この人"のことを、なぜ前々から何となく"素敵な人だな"と感じていたのか、あらためて僕は心の中で深く噛みしめていた。…
「そうなんだ。良いね!その絵って、どんな絵なの?」
「うーん…なんというか…」
彼女は、一瞬瞼を閉じた後
「何か、太陽がゆっくり沈んでゆく時に放つ淡くて柔らかい光に包まれた木々が、その絵の真ん中で静かに佇んでいる風景画でしたよ!」
と、言って言葉を継いだ。
「とっても綺麗な絵で、わたしも何だかすごく嬉しい気持ちになりました」
「へぇー、そうなんだね!いやー、長瀬さんの話を聞いてると何だか、僕も今その絵を観てるような気がしたよ。何か良いねぇ〜
ところで…その男の子、その後はどんな感じだったの?」
もういちど僕は、そう問いかけながら
教員時代の休日に出掛けた印象派の画家展で展示されていた絵画たちの中で、一際美しく目を惹いたある絵を意識の内側に思い描いていた。
…それは、夕暮れの中で
"ひとり"
静かに佇む広葉樹が描かれた作品だった。あの絵を描いた画家は何という名前だったんだろう?…
ほんの一瞬だけ回想が続いた後、ふと目線を長瀬さんの方に戻すと目の前の彼女は次の言葉を発する前、何故かすこしだけ戸惑ったような表情をしていた。
「その男の子は…色鉛筆を貸してって言ってきて、自分の持ってきていたスケッチ・ブックに…」
そう言葉を継ぐと、また柔和な瞳に戻って話を続けていた。
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「まもなくサクラガワ、桜川です。当駅で急行の待ち合わせを致します。若王寺、岩倉方面へお急ぎの方は…」
車掌が、車内放送で家の最寄駅に到着することを知らせている。
そういえば、さっきまでの車窓越しに過ぎ去っていった灯りと"珈論琲亞"の店内の照明ひとつひとつは何となく似ているなと思いつつ、ある広がりをもって反芻していた今日一日の断片のほとんどは、長瀬さん自身の内面の美しさがあらわれていた表情といくつかの言葉だけであったことに気づき、慌てて駅のホームに降りた。
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わたしは
はじめ、ほんとにびっくりした。
だって、さっき何の脈絡もなく福山さんは
「お茶でもどう?」
なんて、いきなり誘ってきてくれたから。
「ふたりなんですが」
福山さんが、そう言うとカウンターの中で水出しコーヒーの機械からドリップされる一粒一粒の眺めていたお年を召したマスターは、ゆっくりと顔をあげて、わたしたちに
「そこ、どうぞ」
と、一番奥の席を指していた。
注文を終えてしばらくすると、
「おまちどさまです。」
白シャツに黒のエプロンをつけたマスターは、静かにそう言いながら、わたしたちの腰掛けている椅子のあいだにあるテーブルの上に、真鍮製のコーヒー・カップと結露によって雫のついたグラスを置いた。
「ありがとうございます。」
マスターにそう言うと、ふたたびわたしは福山さんとの会話を続けた。
この人の癖で会話の中に時折り含ませる「良いね!」であったり「良いなぁ〜」という言葉の響きが心地よい。
「ところで、その男の子はその後はどんな感じだったの?」
福山さんは、そう聞いてきた。
…それにしても、なんで福山さんはいきなりお茶に誘ってくれたのかしら?
普段のわたしがどんなふうにヤング・コーナーで過ごしているのか、やっぱり上司として、聞いておきたかったのかな?…
会話にすこし余白が生まれてから、こう返した。
「その子は…色鉛筆を貸してって言ってきて、自分の持ってきていたスケッチ・ブックになにか描いていましたね。…ちゃんと貸出時間の30分も守ってくれて、もう一回貸してっ!って言って、すごく集中していましたねぇ〜その後、わたしローテで一般カウンターに戻っちゃったんですけど」
「そうだったんだね。その子、ちゃんと貸出時間も守ってくれたんだね。それって、長瀬さんがちゃんと普段から青少年たちに向き合ってくれているからこそ、その子もうちの規則を守ってくれたんだろうね〜。大変な業務だと思うけれど、ホントに感謝しているよ」
福山さんは、ほんとにひとつの体験を伝えるだけで色々と頭の中に思いを巡らして気遣いのできる優しい人だなと思う。
「いえいえ、とんでもないです!たぶん、わたし自身ヤング・コーナーにきてくれる子たちとおんなじように子どもなんですよ笑」
「それだったら僕も似たような感じだなぁ笑」
そう言うと福山さんは、ちょっと真剣な表情に変わって
「最近あらためて
ふとした時よく考えるんだけどね…
"大人"になると便利だから、つい"子ども"と"大人"って区切りがちだけれど…本来はハッキリとした境界線なんてなくて、それこそ印象派の画家たちの筆遣いと同じで淡く繊細なグラデーションみたいに地続きだよなぁ〜と思うんだ」
…わっ!
わたしがさっきユウタ君に画集をみせてもらった時に何となく思っていたのとおんなじだ!
わたしからみえる福山さんって、もう少し…
何というか割と事務的な人かな?と思っていたけれど、こんな感傷的なところもあるんだ。すこし驚いた…
「ホントに!!わたしもそう思います。だからこそヤング・コーナーに来てくれる子達より、すこしだけ長く生きているわたしたち自身が、しっかりと子どもたちを"見守り"ながら等身大で接する大切さと難しさを、特に最近、すごく実感しています」
そう答えるとコーヒーカップを眺めて伏目がちになっていた福山さんが、その一重の瞼をあげて、わたしを見つめなおした。
「やっぱり、そうだよね!!僕も、本当にそう思うんだ。長瀬さん、難しいと思うけれど、ほんとによく頑張ってくれているね…。」
「いえいえ、こちらこそ、気遣っていただいてありがとうございます」
「今議題にも上がってきているし、大変だけれど、すこしずつみんなと話し合いながら模索して良い方法を見つけてゆこうね。ホントにありがとう。」
福山さんの落ち着いていて優しい響きをもったその声が鼓膜に伝わる。
前から何となく漠然と良い人だなと思っていたけれど、今、目の前にいる"この人"のことをすこしだけ好きになった。
…好きになった?まさか。あくまで上司として素敵だなってことだよね?…
その後も、お互いに友ヶ丘図書館で働く前や趣味の話をして盛り上がったのだけれど、
「おふたかた、もう少ししたら閉店の時間ですが、ほかに何か注文なさいますか?」
と、マスターに言われるまで2時間近くも話していることに気づいてなかった。
ふたりとも慌てて支度してお店を後にした。
商店街を歩きながら時々会話が途切れ途切れになる瞬間もあったけれど、それも不思議と心地よい気持ちで友ヶ丘駅へと向かった。
福山さんと帰宅する方向が逆なので改札を入ると別れの挨拶をした。
「いやー、長瀬さん、今日はほんと色々と話せて楽しかったよ。」
「いえいえ、こちらこそ!楽しかったです。ごちそうさまでした。」
「また今度は食事でもしようね。近々誘うよ」
「ぜひ!では、わたし反対方向なんで、ここで」
プラットホームに上がると線路越しの反対ホームにいる福山さんと目があって、お互いすこし気恥ずかしい雰囲気で会釈をしながら、すぐにやってきた帰りの電車に乗り込んだ。
「グラデーションみたいに地続きだよなぁ〜」
さっきまでの会話のなかで印象に残っている福山さんの言葉を思い出しながら、わたしはまた自分とヤング・コーナーにやってくる子たちのことについて考え始めていた。
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つづくぅ?
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