愛猫の死とわたし。
18時53分加筆修正あり。
これは今年(令和6年)7月17日、リンパ腫の為に約9歳半でこの世を去った愛猫の、息を引き取った当日、その瞬間を思い出しながら綴ったものです。
本当にその瞬間感じたこと、見たもの、記憶していることをなるべく克明に書きたくて、そうしました。グロテスクに感じたりするかもしれませんので、目を通される方はご注意ください。
内臓が全て吐き出されそうな程の酷い咳
苦しげで駆け寄る
抱き上げる
きっと最期だと思って
きりちゃん、きりちゃん、
大丈夫、大丈夫、痛いね、こわいね、
ありがとうね、ありがとうね
こわいね、しんどいね、苦しいね、きついよね
大丈夫だからね、ありがとうね
そんな風に、声を掛けた気がする
頑張って生きてくれた
なんとか生き延びてくれた
だけどこれ以上の延命はない
しっかりわかった。
ひどい咳
魂を解き放つ咳
最後の最後、彼女は震えただろうか
とにかく必死で、よく覚えていない
涙が出て、抱きしめないと、
受け止めないと、ちゃんと見ていないと、と、そう思った。
彼女の瞳孔が開いていく
片方の目を見ていた
右目の方は、腫れあがっていたから、
左目だけが、しっかりと開いていた
その目に、黒く広がっていく瞳孔に、吸い込まれそうになって、
その瞬間、他のパーツがどうだったかはよく覚えていない。
多分、逝ったんだ、それだけがわかって、
わかって、その後、
必死に抱きしめようとしたけれど
彼女の体がぐにゃんと、あらぬ方に曲がりそうになって
全身の力が抜けて、
くたくたで、くにゃくにゃで、
ああ、もう、いないんだ、
この体の中に、彼女の意思は一切ないんだ、がわかった。
ひとつの力も入っていなくて。
ちゃんと支えないと、わたしの手で形をなすようにしないと、変な方向にまがってしまう。
泣きながら、
わたしは、ちゃんと、ありがとうって言えただろうか。
よく頑張ったね、ありがとうね、
って、言えたかな、言えてたかな。
言った気もするけど、もういないよな、伝わってないよな、と思いながら、ただ言わずにおれなくて口を動かしていた気がする。
一度ぐにゃりと弛緩しきった体が、今度はだんだんと固まっていくのがわかって、
血の気が失せて、薄ピンク色だった耳も鼻も毛の薄いお腹も肉球も、黄色がかっていくのがわかった。
ああ、あのかわいいピンク色は、
彼女が生きてた証なんだと思った。
耳の先、鼻先、お腹、肉球。
あのかわいいピンク。
彼女の死を噛み締めていたら、目が合った左目を、うっかり閉じそこねて、そのまま硬直してしまった。何度閉じようとしても、瞼が下がらなくて。
だけどそれを見ながら、最後、彼女にわたしがしっかりと見えていただろうか。
彼女を大事に思っていた、わたしの気持ちが届いていただろうか、わかってくれただろうか。
そんなことを思った。もしかしたら、見えていなかったかも知れないけれど、せめて近くにいたことだけでも、わかってくれただろうか、そうだといいなと思った。あなたのことが大好きだよと、大切だよと、伝わったならいい。
そのあと、泣きながら身体を拭いたり(お腹を拭いたら少し残っていた尿が出てきた)、
どんな風に安置しようと考えたり、
誰に知らせようと考えたり、
そうしながら、残酷だな、残酷だな、と思った。
ソファに柔らかいブランケットを敷いて、その上にきりちゃんをなるべく自然な形になるように寝かせて、柔らかく覆うように、身体を包むように、ブランケットをかけた。
彼女の身体を動かすと、少し体の中に残った空気が喉を通るためか、声のようなものが漏れた。それも、数日聞かれなかった懐かしい彼女の声のようで、可愛く思いながら、でも、物理的な仕組みのせいなんだと思うと、不思議で。
生きた残り香を楽しんでいるみたいだった。
彼女がここにいるのか、いないのか、危ういような、不思議な感覚で。
身体はあるのに、彼女の魂はそこにはいなくて。
意思はないのに、彼女の肉体だけが遺されていて。
後始末を、しなくちゃいけない。
泣きながら、猫飼いの先輩、友人に連絡したり、母にも連絡したり、
お世話になった動物病院にも連絡しようと考えたり。
ああ、いっぱい泣いたな、と思う。
その傍には亡骸があって。
大好きな大好きな彼女の亡骸があって。
だけど残酷なことに、頭の中で何故か彼女がいなくなったメリットを考えはじめる。
(例えば、もうお薬代もかからないんだ、というようなこと。わたしが数日家をあけるようなことがあっても、彼女のことを心配しなくていいんだ。とか。)
心が壊れないように、ダメにならないように、防衛本能みたいなものかも知れない。
ああ、キツいな、と思った。
そして、大好きな彼女の肉体なはずなのに、魂が抜けたとたん、どこか、忌むわたしもいて。
死が側にあることの嫌悪感も湧いて。
生きているって、なんて残酷で勝手なんだ、と思った。
明日が、最初の月命日。
彼女の死をきちんと受け止めて、きちんと弔い、ちゃんと前を見て生きていこうと思っていた、ここ、約1ヶ月の間、わたしはちゃんと、わたしを生きていられただろうか。
生きていようと必死だったけれど、最近少し、気が抜けたところもある。
どこまで悲しんでいいのかわからなかった。
いつまで悲しんでいていいのかわからなかった。
好きにすればよかったんだと思う。
自分に嘘をついて誤魔化すのが得意だったわたしを、素直にさせてくれたのが彼女だったと思う。
ありがとう、と、寂しいよ、と、悲しいよ、恋しいよ、を、どれだけ思ったかわからない、ここ1ヶ月。
この記事を書き直しながら、また、まだ、涙が出そうになる。
多分泣いてもいいのだろうけど、
少し自分を許せないわたしがいる。
悲しみに浸るな、引きずられるな、自分に酔うなと厳しくなるわたしがいる。
きりちゃん。
今朝、起きかけた意識の中で、横になっているわたしの側に、きりちゃんがいる気がした。
もちろんもう居ないのは、わかっているんだけど。
心配しているかもしれない。
何気なく見に来てくれたのかも知れない。わたしの様子を。(お盆だしね)
このお盆が終わったら、今度、火葬からずっと側に置いていたきりちゃんの御骨を、実家のお墓の側に埋めようかと思っている。
御骨に魂がないのはわかったよ。きりちゃんも御骨の側にいないのはわかったよ。
それを感じとったよ。
ありがとうねと言いながら、土に埋めてあげたいなと思う。
それが本当に、物理的な最後のお別れの儀式になるかなと思う。
きりちゃんの生きた跡に、わたしができる最後のことかなと思う。
たくさんたくさん、色んなことを感じさせてくれてありがとう。きりちゃん。心を思い出させてくれて、蘇らせてくれてありがとう、きりちゃん。
やっぱり彼女の為には、悲しい言葉だけで締めくくりたくはないなと思います。
悲しいけど、辛いけど、寂しいけど、こんな風に思わせてくれる彼女の存在がどれだけわたしにとって大きくて愛しいものだったか。
誰かにも分かってもらえると嬉しいです。
これはわたしのわがまま。
ここまで目を通して下さった方がいるかわからないけれど、ありがとうございます。