年末年始はストーリー☆
なんて忙しない年末年始だったのだろう。
それが今これを書いている「私」の感想です。
なんとも不思議なことに、大晦日あたりから三が日って曜日感覚が薄れませんか?お盆はそんなことはないけれど、年末年始は今日が何曜日かわからなくなる現象が起きますよね。
それがなぜそうなるのかはわからないけれど、必ず毎年そうなります。
(私の場合だけかもしれませんが)
もれなく今回もそうでした。
でも、そもそもは曜日なんてないのは明らかです。
詳しいことはわかりませんが、誰かが日付変更線やらを設定し、世界のどこにいるかで日にちが変わり、日にちには曜日が設定され、一年は365日などと決められている。
その決まり事はどこかの時点で人間が定めただけであり、もともとは曜日や日にちがあるわけではありません。
年末年始などはないわけです。
今日は1月5日ですが、その日にちも本来はありません。
年末年始になると、どういうわけか私はいつも気ぜわしくなります。
おせちの準備をしたり、おもてなしの準備、それはもうこの数日は休日であるにもかかわらず果てしなく動き回ります。
日本はお正月にお節を食べる習慣があります。
習慣になっているがゆえに疑問すら持つことはないと思いますが、別にお節なんて食べなくてもいいわけです。
ステーキを食べようと、コンビニのお弁当だろうが日常と同じで全く問題はないはずです。
なのに、日本人の脳にはお正月にはお節を食べる がインプットされています。外国の方にはお正月にお節はインプットされていないでしょう。
脳の中にインプットされていること=ストーリー
人生も「私の脳の中のストーリー」でしかありません。
この瞬間しかないことに、未来も過去もありません。
よって、人生はありません。
個人の脳の中に人生が存在するだけのことです。
その人生をよくするために、個人は必死です。
そして、「私」が認識する時には「瞬間」は過ぎ去っています。
どこまでたっても瞬間に私は追いつきません。
「私」=この体の脳に備わった機能による記憶です。
私たちはただの生き物ですね☆
脳が発達した、素晴らしい生き物ですが、素晴らしさ故に醜さもセットです。
知識としてこれをインプットしないでください。
ノンデュアリティは、「ただそうである」ことが起きたときに明白になります。
なんの意味もなく、素晴らしく醜い全受容。
今まさに目の前にあるものです。
そこに解釈や理解が伴う時は「私」が存在しています。