誰もが陥る「私」という人生ゲーム18
悩んでいるのは、自我=「私」
「私」はいつも幸せ感を味わいたくて、良い状況を作ろうとして、
良くない状況から逃れようとしている。
そしてどこかの教科書的なもの、バイブル的なものを探して、得たい状況を得ようとする。
ジャッジしないといいつつ、それがジャッジになってしまうという無限ループ。
手放しましょうといいつつ、それが手放せていないという無限ループ。
あるがままといいつつ、あるがままでいられない。
二元の現実に生きている限り、自我が生み出す概念からは逃れられない。
教科書(概念)を手にした時から、苦しみが始まる。
生まれたときは、自我なんてなかったのに、成長するにつれ、「~が良い」「~してはいけない」・・
小学生になり、教科書でたくさんのことをインプットされ、誰か自分より上に見える人の言うことは「正しい」と叩き込まれる。
「概念」が自己肯定感を低くする。
自己肯定感が低いとか、自己肯定感を高めましょうとか。
自己肯定感が低いことはいけないことかのような概念が、さらに自己肯定感を低くすることがある。
そして、自己肯定感を高めるかのようなバイブルが勢揃いし、それを「良い」とすることで、苦しむ人も増やしてしまう。
もちろん、そのことで高まる人もいるから、それ自体が「悪い」わけではない。
自己肯定感を高めることを人は望んでいるのではなくて、そんなことにとらわれないことこそを望んでいるはず。
それがありのまま なのだけれど。。
自己肯定感が低かろうと、高かろうとどちらでも良いのである。
「自我をなくしましょう」なんてできない。
むしろ、自我を無くしましょうをやめましょう が「自我からの解放」。
何かを操作して物事を起こせる「私は」いない のに、「私」はこうであるべき、これはダメ、これは良い。
そしてそれを手に入れようと頑張ったりする。そしたまた手に入らないことに苦しんだりもする。
全部、「私」が創り上げる「概念」が何かを判断して苦しみを創り上げている。
自我があって、それにとらわれたりもして、何かを得ようとしている「私」。
それが「私」だと知っている、どこかの私。
そう認知している「私」の姿はどこにもない。
ただ、それを見ている「私」がどこかにいるような感じがしているだけ。
その「私」はどこを探してもいない。。
ただ、そんな「感じ」がしているだけのことを
私と思われるような自我が創り出した「概念」が、操作しようとしている。
私がいない世界から見る「私」や「出来事」は、ただパッと出来事が現れ、パッと「私」が何かをしたり考えたりということが起こっているだけ。
その世界があまりにもつまらなくて、何か考えたり悩んだりを体感しているだけ。かも。
私がいない世界から見る「私」を、「私」は書いているけれど、人それぞれ「どこから見た「私」を採用しているか」だけの違い。。
それはどれも間違いではない。
どっちでもいい、どれでもいい、どうでもいい、どうあってもいい。
そんな無条件の愛の世界が、「私はいない」ノンデュアリティのエネルギーでしかない。
そのエネルギー空間は、いつも「私」の目の前に在るけれど、近すぎて透明すぎて見えないから、概念化できないから理解できない。
さらに、私も占星術やセラピー、カウンセリング等をするけれど、
各々求められる視点で「私」を解明していることになる。
その視点では全く解放をもたらすことはできないと思いつつ。。という矛盾。
だけれど、それもその対象の人が求める世界であるからまあいいかな。という3次元の無限ループ。
自我はなくならないし、悩みもなくなることはないし、幸せ感が永久に続くこともない。それを「所持」することはできない。
ただ起こっては消えているだけだから。
それはもともとないから。
ただ、何も誰も間違っていない。ということ。。
なので、私のいない空間からの、突き放したようにもとれる最大限の愛の言葉は、「解決策はどこにもないよ、だからそのままでいいし、どうであってもいいよ」 ということ☆