誰もが陥る「私」という人生ゲーム⑭
内観を永久にし続けますか?・・終わりのない無限ループ
これまで幾度となく、何かが起こるたびに「内観」をしてきた。
内観すれば自分に納得できる(せざるを得ない)答えは出てくる。
その瞬間は。
それを良い事として「し続けている」こと自体、都度、緊張感(ノンデュアリティでいう「収縮」)が起こる。
問題をどうにかしようという緊張感。収縮感。
でも結果として、何度も何度も内観しても、また内観という無限ループ。
内観は無意味なことでもない。
意味のあることでもない。
そこで導き出した答えは、自分が創ったストーリーなだけで。
シンプルな事実は
・起こった
・考えた
・感情が湧き上がった
それが起こっただけ。
誰もが何かを起こそうとして起こすことはできないし、どんな感情が湧くかもその感情を湧かせようとしてもできない。
答えも出そうとしても出ない
すべて自動的に湧きおこる
苦しいことは経験したくない、イヤな想いはしたくない。
私ももちろんそうだし、きっと誰もがみんなそう。
苦しいことがあれば早く楽になるために、イヤな想いを消すために何かしようとする。
自分にとって良い想いを与えてくれる出来事や人、時間が永続的に続くことを人は求めてしまう。
でもこの二元の世界に生きている私たちは、良いことだけを経験することはできない。
どうにかしようとしてできるものはない。
自然に起こったように映ることでも、自分がどうにかできると思っていることがあったとしても、例えば今日の夜、何が起こるか、何を思うかなど誰もわからない。
事件と言われるような出来事に巻き込まれることは大きな悲しみではあるけれど、それを予測できるなら、その場に行かない選択ができるはずだから、これから起こることの予測も選択も人は出来ないということになる。すべてにおいて。
(空想というストーリーを作ることはできる)
悲しいけれど、そうは思いたくなくてもそれは事実。
思うことや起こることは、1日だけでも何万とありそれはすべて自動的に起きている。
時間は存在しない
毎日、朝起きてから夜寝るまで人それぞれの生活パターンがある。
そこには時間がセットになっている。
時間がないなんて、とても信じられないことだけれども、
実際、大昔の人たちの生活に時計はなかったし、感覚的なことでしかないことは確かである。
「時計という道具を使って、生活サイクルを仕切る」という仕組みを人間が創り出しただけである。
あるとすれば記憶(過去)と空想(未来)の中でしかない。それすらも空想であって、実体としてここにあるものでもない。
3次元では、時間の経過を通してしか全体像を認識できない。
私たちの人生のように。
しかし、2次元の絵という1枚の紙は瞬時に認識できる。
4次元は流れのような(3次元からはそのように感じる)ものだと思うけれど、そこから見れば3次元は瞬時に全体像を認識できるということになる。
仮に時間があったとして、未来から見た過去は全部記憶としてわかるようなもの。
5次元は人の人生が多方面にあるようなもの、いわばパラレルワールド。
そこから見たら、4次元も一瞬にして認識ができることになる。
一瞬にして認識できることだから、そこに時間は要することはない。
ということは、そもそも時間はないということ。
すでにすべてが存在している
次元が上がるたびに認識できる世界が変わる。
過去の出来事と思っていること、今、未来に起こることは、すでに同時に存在している(現れている)ということ。
ただ3次元にいるから、それを認識することができないだけで。
すべての出来事も結果も既に存在しているのであれば、内観したり心配する意味がありますか?ってことになる。
悩んでも結果は決まっているから、自然に任せることが最善。
自分で選択をしているようでも、本質的には選択はしていない。
3次元にいるから、選択をしているように感じるだけ。
今選んでいる選択と違う選択の人生は他にもあって、ただそれを意識(認識)した(重くした)ときに別のパラレルワールドで人生を味わうことになる。
ただ、本質的なことを言えば、
人間が「いる」ということと、実際に生きている(と感じている)私のような感覚は、ひとつの私空間に現れている。
(私空間という言葉は私が勝手にあてはめた言葉なので、意味はありません・・)
その私空間は人の数だけある。
さらにそれをすべて存在させ、すべて受容し認識している空間がある。
私という実体はどこにも存在していない。
どこにもいないから、悩みや苦しみなんてそもそもない。
過不足なくすべて完璧な愛の空間。
そこから見ると、何も自ら起こさなければならないことなどない
に行きついてしまう。
やりたい放題に好きにすればいいという意味ではなく、歩くエスカレーターに乗っていて見えている景色(出来事・感情・思考)が次々と変わるだけだ。