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誰もが陥る「私」という人生ゲーム⑮

みんな自動運転で生きてる

最近の車はカーナビは標準装備になりつつあると思います。
目的地を設定すれば、道を知らなくてもどこへでも行けます。
本当に便利になりました。

自動運転の車に乗っていることと、人生は似ています。

人生は自分で決めて選択をしているように思えるのですが、ここまで毎日、自分が形成されてきたのは「自動的」でした。
もちろん生まれてから成人するまで親が世話をしてくれていたからでもあるのですが、それとは別に身長が伸び体重が増え、髪が伸びたり、病気になったり治ったり・・数えたらキリがないほど、自分の意思とは無関係に変化をし今日があります。

カーナビと違うところは、人間は目的地を設定しているようでいて「自分の意思」で目的地を設定はできないということ。

本質的には私がいないので、「人生はない」けれど。

今にはいられない

「意識」の部分で言うと、どこの学校に行くか、どこに就職するか、誰と交流するか、どこに住むか。。確かにそれを考えて意思決定をして選択しているようには思えます。
だけど、それは3次元の感覚で時間の流れを感じるからそう思えるだけで、実際はすべてが同時に存在する世界である以上、すべてのことはすでに決定していることになります。

時間の流れと捉えるならばなおのこと、昨日と全く同じ自分はもはやいなくて、昨日どころか1秒前と同じ自分すらいません。
昨日と違う自分に今日の自分は勝手にそうなってしまうし、カーナビのように設定しているわけでもなく、まったくもって「私」とは無関係です。

一瞬すら自分では決めたくても決められない。
それ以前に、「私」は肉体でもないし意識でもないので、意思決定は「想像上のシナリオ」のようなものということになります。


悩むのはムダかもしれない

あえて「かもしれない」にしましたが、きっと実際は悩んでもムダ(良い意味で)なのだと思います。でも人である以上、思考は切り離せないから、悩んだり考えたりはするのだと思います。

人生は自動運転なのにこの道は本当に安全か、事故に遭遇しないか、この道は正しいのか等、悩む必要はないのだけれども、人の気持ちや感情の上で自由意思がないなんて思いたくないし、思えないから、考えたり悩むのもこれも決まっているのだと思います。

ただし、決まっているようには考えられないという「私」の特性がある以上、決まっていないとしかとらえられないし、それはまさにそうだとしか表現できない。

起こることが起こる、起こらないことは起こらない。
当たり前だけれど、それしかないとてもシンプルなことなのでしょう。

自由意思がないけれど、何でも自由です。
果てしなく自由ですね・・。

無いのに形や何かはつくれない。
ここに形あるものはストーリー。



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