ノンデュアリティから見た、ツインレイ概念①
「ツインレイ」は概念にすぎない
この時点で「ツインレイ」を信じている方には、受け入れがたいことなのはよーーくわかっている。
それを承知で書こうと思う。
実体のないものは「概念」でしかない。
誰かの考えや方法論、説明、意味づけだということ。
「私」ですら実体がないのに、ツインレイは幻にすぎない。
(私の実体がないというのは、体が私でもなく、意識が私でもない、どこに私がいるの?というところからの見方)
ネガティブな意味でそれを追い求める人を落胆させようとしているわけではなく、それに囚われていることこそが遠回りだと言いたい。
ツインレイは別の見方で言えば、
①「依存」「回避依存」の関係性ストーリー
②自分の中の「男性性」と「女性性」の統合ストーリー
③自己肯定と自己否定の統合ストーリー
とも言える。
どこからの視点で概念化しているかの違い。
さらには本来、相手がいなくても自分の中で完結できることである。
ここでいう統合は、相反する2つのものをどちらも受け入れ仲直りして、別の新しいものを創造していけるイメージ。
歪な自分を中和していくような。
それをツインレイを信じる人の概念では、ツインレイ統合というものが存在してくる。
けれど、ノンデュアリティから見ると、私は存在しないから、①~③のようなものもそもそもない。
自分が創り上げた、ストーリー上のことでしかない。
もちろん、「空」の世界も、書くことや表現をするとストーリーになってはくるのだが。
人は皆、無条件の愛を求めている
自分に向けられる無条件の愛というのは、自己統合されている状態のこと。
誰かからもたらされるものではない。
大なり小なり、①~③ができていないとそれを人から求めようとする。
①~③があまりにも不完全な人たち同士が恋愛をした場合、「ツインレイ」というものがストーリー化されてしまうことがある。
あまりに歪になってしまった自分を取り戻すには、相手に自分を投影して見せる必要があるのだけど、見るに堪えないほど拒絶や攻撃をしてしまう。
そんな恋愛関係は、一般的に考えたら「論外」である。
が、
「ツインレイ」はどうしても論外というわけにはいかず、徹底的に惹かれ合うし、無意識に求めてしまう。
それは欲しくてたまらない自分にないものを持つ相手だから。
自覚はないから厄介。
そして、その追い求めるもの(無条件の愛)は本当は自分の中にある。
その自分を見つけ出すまでが、本当に地獄のような苦しみを味わう。
だけれども見つけ出すことができると、歪だったものがちょうど良いバランスを見事に保てるようになる。
と同時に相手にもそれが起こるから、不思議に思えるけれど、
世の中のものはすべて自分の投影(自分が創り出している)だから当たり前なのだ。
無条件の愛を自分の力で自分に与えることができる状態。
「私が私でいられる場所」= 完全なる安心感。
それはノンデュアリティでいうところの、なにもない世界。
空の状態。
マトリックスに出てくる「白い空間」。
「私」を手放した空間に、無条件の愛が存在する
その状態はどうしたら手に入るのか。
①~③に関して言えば、自己統合ができた時ということになるが、
徹底的に自分の闇(ネガティブ)なところに向き合い、浄化が起きたとき。
恋愛関係でいえば、完全に諦めたとき。
その時にノンデュアリティで言うところの、「空」が姿を現すことがあるかもしれない。
無条件の愛 と同等のエネルギーを自らが発した時なのではないかと思う。
~でなければならない、こうあるべき、こうであってほしい、これはダメ等を手放した時。
相手を受け入れ、自分も受け入れ、善悪ではないすべて。
それはもう既に誰もが本当は自分の中に持っているもの。
思考や概念が すでに持っているものを見えなくしている。
すべてを持っているけれど、なにもない。
それがノンデュアリティでいうところの、「私」はいない の地点。
泣いてもわめいても、縛られた「私」からの解放をみんな求めている。