希望が絶たれたとき=解放 ともいう
一瞥体験は体験としては起こることがある。
だけどそれは、意図して起こせるものではなくて、何かをすれば何かに至るとかそういうことを言っているわけでもなく。
それよりも、その求めているものがガラガラと崩される。
「解放」とはそっちのこと。
解放はいつも常にあるから、それを維持するとかではない。
維持しなくてもある。
それを見つければ幸せになるとか、聖人君主になるとかではない。
目指すところでも、至る場所ではないから。
良いところでも悪いところでもない、ただのそれ。
今、誰もがそこにいるのだけど、あまりにも自然すぎてわからない。
目に見えるものではないことを表現しているから、認識としてわからないのが当然で、まさにそのまんまを体現している。
「私」が何かを見つけなくても、もうそこで生きちゃってる。
それは笑っちゃうくらいどうしようもないこと。
何かをどうにかしようなんて・・いわば「緊張」でしかなくて、その緊張は脳内ストーリーが思い切り動くと余計に増長する。
それすら成す術がない。
誰もがどこかにあると思っている「救いの手」。
それはない。
ないものをずっとずっと探し求めている。
今が苦しいのは、良くなる何かを探し求めているから。
そんなこと言われたら絶望しかないから、否定したいのが「私」。
「私」がそれを緊張的にネガティブにとらえれば、絶望。
でも絶望は「私」の脳内ストーリー。
なんにもない、なんでもないという無限の解放でしかない。
救いの手はなくても、動物や植物と人間は何も変わらない。
脳内ストーリーがなくなれば、どうってことはない。
救いの手はなくても、救いの手はここにある。