ノンデュアリティから見たツインレイ概念4
好きになることも嫌いになることも全自動
この記事を書くのは4回目だけれど、毎回ノンデュアリティに関しては同じことしか書けないことを予め伝えておきます。
恋愛だけに限らないけれど、誰かと誰かという、それが本来はないものだから、そこに関係性ができることは、たとえていえば映画のようなもの。映画の中のストーリーでしかない。誰かを好きになったり、嫌いになったりは、俳優そのものが操作しているわけではない。
それと似たようなもの。
「私」の意思のようなもので誰かを好きになったり、嫌いになったりできるなら、好きにならないことも、嫌いにならないことも、誰かの間で起こる問題をなくすこともできてしまう。
それがまったくできない。
なぜ人を好きになるのか
その理由がわかる人いますか?
私にはわかりません。
わからないけど好きになることが起きてしまう。
それなのに、誰かをどうにかしたいとか、恋愛をうまくいかせるには・・という概念を採用してもどうしようもない。
その概念でうまくいくことが起こる人もいるし、起こらない人もいる。
「私」が操作できるものではない。
愛を操作しようとしますか?それは愛ですか?って話にもなる。概念的にだけど。
好きでもない人を好きになろうとしても、それはできるものではない。
「私」にできることがあるなら、「私」が何かすることから降伏する。
ことはできるかも。
でもそれすらも「意図してできた」わけではなく、それが起きるのなら起きただけ。
好きになること自体が、「私」が好きになっているように感じるけれど、その「場」に愛のエネルギー(という表現は的確ではないにしろ)が湧き起こったということ。
例えば、ツインレイ概念を採用している人たち向けにそれをポジティブに捉えてもらうならば、愛する人の間に良いことが起きたということは、それを起きたこととして、そのままにしておけば良いだけのこと。
「私」が介在しないでそのままにしておけたら、愛のエネルギーがその場に在るだけだから。
あまりうれしくない現状があるならば、それをどうにかしようとすることは無条件の愛からかけ離れていく。だから嬉しいことが起きようがない(概念的に)。無条件だから何でも起きていいのだけど、自分にとって幸福感があり美しい愛が無条件で良いこととすると、「ツインレイストーリー」はめちゃくちゃになる。
例えば嬉しいことが起きたとして、それを「私」は時間の概念があるから、愛を所持し続けた感覚を持つだろう。
その愛のエネルギーの現れは、「私」にとって幸せを感じることが起こるのではないだろうか。わからないけど。
起きるかもしれないし、起きないかもしれないけれど、起きればその愛のエネルギーの現れが起きたということ。
「私」が存在したときに、それを喜ぶのか猜疑心や勝手に理想を創り上げるのか何が起こるのか、どうなるかわからない。「私」が介在すると途端にストーリーを創り上げていく。
愛とノンデュアリティ
なにもない世界のことを私は「空間」「場」と呼ぶことにしている。
その空間は完全なる安心な空間。
安心も愛も本来頭で考えるものではなく、定義がされているものでもなく、体感的なものでしかない。
ただ、そう感じている誰かがいるとノンデュアリティではなくなるのだけど、ただそういう「場」というか、そのもののことを本当は言いたいのだが、なかなかそれは伝わりにくい。
ツインレイという概念で、これはこういうもの、こういう場合はこういうことというそれは、物語。ストーリー。
「私」というストーリーの中に存在する、これまたストーリー。
どこまでいっても恋愛マトリョーシカ。
ストーリーだからといって間違いだと言っているわけではない。
そのストーリーが起きているのは起きていい。ただそのストーリーを作り替えようとか、どうにかしようとしてもできない。
できないことをしようとしていると、そこには重いエネルギーが湧くだろうなと、「私」は思っています。
所有、所持し続けることはできないのが本来のその愛の空間。愛のエネルギー。