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夢の登場人物には怒りは湧かないのに、現実の他人には怒る人間

明後日以降また時間がとれなくなりそうなので、畳み掛けています。

言葉は人間の生み出した素晴らしいコミュニケーションツールですね。

その反面、言葉によるトラブルも起きます。
書きたいことや事象を的確に表せる言葉はもしかしたらないのかもしれません。あまりにも複雑な心情の時にそれを的確に書けと言われても、逆に一文字も書けないものです。

言葉が示されたことで、自分がイヤな気持ちになるようなものに批判をする人も現れたりします。

この素晴らしいただのツールに批判する人が現れることが起きるならば、自分が自分に持つ自己否定と自己肯定が起こっているにすぎません。
否定と肯定は同じエネルギーです。
する側、される側の共鳴です。
別の言い方をすれば、否定されたくない防衛本能も起こっています。

自己否定も自己肯定も、本来は不要です。
同じものに分離は起きません。

本当は自己は不在なので否定も肯定もしようがないのですが、人間は一定の価値観や基準、こうであるべき立派なものに支配されています。
さらには個性的な自我キャラクター設定がそれぞれにあるので、まったく同じ人はいないにも関わらず、同調を好み、他人は認められないシーンが多々出てきます。
みんな違う生きものだけど同じものということを忘れて、自分と違うものは多かれ少なかれ恐れの対象になるのです。
「私」という、こうでなきゃキャラクターは、他のこうでなきゃキャラクターが本能的に怖いのです。

だから別のキャラクターに好かれようとする行為もします。
なるべく嫌われないように、奥底の個性を発揮しないようにもするでしょう。


話は変わりますが、
夢って、少し知ってる他人どころか誰だかわからない見たこともない人が出てきたりしませんか?この世界でいえば不審者ですし、不法侵入です。プライベートの侵害も甚だしいわけです。
こんな不法侵入者を夢では全許容してます。夢と判明したときは恐ろしい不審者が怖くもないのはなぜですか?

それが夢だとわかっているし、怒る対象がいません。
自分の脳内で起きているように思える、対象がないものに怒れないのです。
まあ、夢の中で怒っている場合もありますけど、寝ている時に顕在の「私」はいないので、夢の中の私がただ夢の中で怒っているだけなんですよね。
顕在の「私」には何も起きていません。

でもよく見ていくと、この現実世界にいる他人も、自分のイメージの範囲を超えることはできません。

他人は全部、あなたの脳裏の中のキャラクター止まりであるにもかかわらず、このリアル感のある登場人物がただの自分が設定したキャラクターであることに気づきません。。

脳裏の中の他人は、あなたが設定したキャラクターです。

他人に対する怒りは、あなたの想像したキャラクターに怒ってるわけですね。
ディズニーランドのミッキーマウスに怒っていると近いですね。

そこと一体になっている時はそれそのものだから気づけないだけです。
(ここが一番伝えたい部分にもかかわらず、伝えづらい部分)
怒っているときは、怒りそのもので怒りしかないから怒りなのです。
怒りがある だけです。気づかないだけで夢のような全許容がいつでも静寂の中で起きてます。

あなたが怒ろうとして怒るのではなく、怒りが湧くときは怒りそのものとすでに一体です。
認識はその次に起きてます。
「私は怒っている」はいつも後付けです。
認識している時に怒ることはできません。
私は怒っていると感じながら怒れないということです。

分離の無い怒りに、批判を同時に湧かせることはできません。
夢から覚めたときに、それが明確です。


後付けの思考はおそろしいですね。
それを自己が創っているという意識がなくやってのけている、私不在だから私はいっこうにきづきません。

それだけがいつも続いています。







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