脳の機能は、人間の真剣な暇つぶしを担っている?という思考の話
結局、クロアチア戦を最後まで見ててかなり寝不足ながら、やっとnoteを更新する気が起きた。
やることを後回しで、備忘録的なことを書いておこうかなと思う次第。
サッカーを見ていて感じたこと。
誰も意図して何もできない
反応があるだけ
という事実。
どうしてもそれしかない。
もちろん見ている時の高揚感や、結果に対しての残念さ、も湧くのも「感覚」として事実なのだけれども。
サッカーでいえば、作戦を立てることや相手の動きや結果の予測をすることは起こるけども、
事実だけを見ていくと、作戦も予測も過去の出来事の記憶に対して湧き起こる思考なだけ。答えなどどこにもない。
意図して何かできれば、どのチームも点が取れるし試合は永遠の引き分けにしかならないな。
それでは勝負を決める試合が成り立たないけど。
どんなに思考をしても、実際には試合を意図してどうすることもできない。
瞬間に起きることに対して、無意識の反応が起きているだけ。
としかいいようがない。
仮に事前情報も何も無く、ワールドカップだという認識もなく、中継の音声もなく、選手に名前もなく、国という区別もないとしたら。
生き物が丸い球を蹴っている だけになる。
生まれたばかりの赤ちゃんがクロアチア戦を目にしていたとして、音は聞こえていたとしても意味はわからずで、ただ何かが動いている ということしかないだろうな。。
生まれたばかりでは目が見えないから、何か音がする だけ。
もしかしたら音も聞こえないかもしれないとしたら、真っ白なものの中に「感覚」が何かあるだけなのかもしれない。
大元のそこには言葉もないから、生き物だとも丸い球といった概念もない世界ということになる。
純粋にみれば、現象に対して、人が沢山の意味や名前をつけている にすぎない。
記憶と予測、名前・・ 思考で私たちは生きてしまっている。
太刀打ちできることのない瞬間がただ出てきてるにすぎない。
目の前にある無音の映像に思考を付け足していて、単に暇つぶしみたいなものかもしれない。
自我は真剣な暇つぶしみたいなもの。かなという思考が私の中に湧く。