存在証明とは
大学を休学している
ありがたいことに、フリーの仕事が増えた
私は何をもって社会で自分の存在を証明できるのだろうかという、答えのない問いを考えはじめる深夜4時。
肩書きだけでなく、自分としてまるごとを認めてもらいたいという素朴な気持ちは何も恋愛に限るものではないのではない。役割を持たずに、ただひたすらに真っ直ぐに時間をかけて知り合えたら素敵だ。
しかし実際には知らない相手や、社会に対して自分を瞬時に表現しなければいけない機会は多く、名前以上の存在証明が必要になる。思いつくものは生徒証や免許証?いや免許なんて持ってないし学校にも行ってない。ともすれば、ポートフォリオ?やる気が起きずにつくりかけの状態。他己紹介がいちばん幸せな形なのかもしれないけれど、必ずしもそのようなシチュエーションばかりではないだろう。
SNSの世界では、どのような人間に見られたいかを自由に設定できる。自分のどの面を見せるのか、社会においてどんな役割を持ちたいか、誰と繋がりたいか、それを書けば、集まる。ハッシュタグは、優しい。最近Instagramの投稿が増えた気がする。私は不安なのかな。ここに居るよーって。
先月はボードゲームカフェによく出入りした。自分にとって新しい世界だった。そこでは本名も職業も知らない初対面同士でもコミュニケーションがゆるやかに流れていく。「やること」をみんなが持っているからだろうか。だんだんと、その人がどのような人か分かってくる。この人は安定志向っぽい、あの人は周りをよくみている。気づけば一斉に拍手をしたり笑っている。次またそこで会えば顔見知り。挨拶をして同じテーブルに、この前よりちょっと自然に座る。優しい空間だ。
役割ってなんだろうと思う。
やることがあれば、そこにいていい、そう解釈すれば居心地の良さにも繋がりうる。しかし時に自分を縛る。自分の投稿した写真の集合体から自分はこれが好きなのだと認識するように。そしてそれでも自分はこうなのだと、表に出したくなる時がある。アスファルトの盛り上がりで気づく木の存在みたいに。
…たぶん寝た方がいい(笑)
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