『無伴奏ソナタ』オースン・スコット・カード 感想
こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
オースン・スコット・カード(1951-)は、現代を代表するサイエンス・フィクション作家の一人です。1985年と1986年の二年連続でヒューゴー賞とネビュラ賞を同時受賞した唯一の作家で、その後も多岐に渡る作品群を生み出して活躍を続けています。
カードは、末日聖徒イエス・キリスト教会の熱心な信奉者の家系に生まれ、彼もまたその教徒として活動しています。聖書だけでなく「モルモン書」という独自の聖典を持った非三位一体の信仰で、学生時代にはボランティアで布教活動にも参加していました。カードは幼いころよりフィクション小説や歴史書を熱心に読んでいましたが、同時にこれらの聖典も寓話的な関心として読むことが習慣になっていました。次々に押し寄せる好奇心を満たすように幅広い種類の書籍を読み続けることで、彼は「あらゆることについてすべてを学ぶこと」に楽しみを覚えます。このような探究心は社会人となっても衰えることなく、この感情は創作意欲へと変化していきます。しかし彼は読書だけでなく、母親の関心に影響されることで音楽への道も拓かれていきました。カードは少年時代から良い耳を持ち、ハーモニーを得意とするソプラノの歌唱を披露しました。流行歌を歌うこともありましたが、教会の讃美歌も歌い上げることができる力量で、母親はより一層に音楽の教育を施していきます。学生時代にはホルンやチューバなどを学び、その音楽的才能を発揮します。また、末日聖徒イエス・キリスト教会が演劇上演を奨励していたこともあり、音楽的関心を入口としてブロードウェイにも足を運んで、そして自らでも舞台公演などを試みました。
十六歳のとき、父親がブリガムヤング大学(末日聖徒イエス・キリスト教会が運営する私学)へ教職を務めるため、一家は所在地のユタ州へと引っ越します。カードはその付属高校で学び、大統領奨学金を獲得して考古学専攻で大学へと進学しました。しかしながら、彼は考古学以上に演劇学部への関心が強く高まり、そちらへ専攻を変えて演劇を学び、自ら台本を書くために執筆の勉強を始めました。卒業に必要な単位獲得まであと僅かというところで、カードは末日聖徒イエス・キリスト教会の宣教師としてブラジルへ旅立ち、多くの都市へ渡りながらポルトガル語を学び、ブラジルの文化に影響を受けました。帰国後に残りの単位を獲得すると、立ち上げていた自らの劇団を設立し、劇団主宰として台本執筆に勤しみます。しかし嵩んだ費用はカードの借金となり、それぞれの演劇作品自体は成功を収めたものの運営が立ち行かなくなり、結果的に劇団を解散することになりました。ブリガムヤング大学出版の校正員として職は得ていたものの、このままでは多額の借金を返済する見込みは無いとして、自らの執筆意欲を活かすかたちで商業的に間口を広く開けていたサイエンス・フィクションの世界へと飛び込みました。そして生まれた作品が、後に人気シリーズとなる始めの作品『エンダーのゲーム』でした。
本作『無伴奏ソナタ』は、演劇集団キャラメルボックスによってミュージカル化されたことで、サイエンス・フィクションファンのみならず、広く知られることになった短篇作品です。本書で四十ページにも満たない作品ですが、芸術と芸術家、取り巻く社会と人々、そして彼らを隔てる思想と仕組みが全体主義社会において濃厚に描かれています。
舞台はユートピアとされる全体主義社会で、社会は法律によって守られ、誰もが適性を活かした職に就き、幸福な人生を送っていると信じています。クリスチャン・ハロルドセンは、生まれながらに音楽の素質を見出され、僅か二歳でその才能を認められました。〈メイカー〉(創り手)として選ばれたクリスチャンは、家族から離されて森の奥深くの小屋へ移住し、身の回りを世話する者とともに、自然の発する音だけを聴きながら、音楽の創作活動へ取り組みます。誰もが聴いたことのない音楽、クリスチャンのなかでのみ湧き上がる音楽を、彼は特殊な〈楽器〉を用いて、次々に生み出していきます。この音楽を聴く人々〈リスナー〉(聴き手)は、クリスチャンと顔を合わさずに音楽だけを純粋に楽しみます。そして、このような接し方こそが法律で定められ、〈メイカー〉の芸術性に悪影響を与えないために、〈リスナー〉を含めた他の人々が接触することは厳しく禁じられていました。しかし、掟を破った一人の〈リスナー〉が「バッハの曲を録音したレコーダー」を手渡してしまいます。好奇心に負けたクリスチャンは、バッハの曲に込められたフーガとハープシコードの音を聴きました。このことで〈ウォッチャー〉(見張り手)に外部接触があったことに気付かれ、二度と音楽を創作することを禁じられてしまいます。ドーナツを運ぶトラックの運転手となったクリスチャンは、仕事で通いやすいひとつのバーに訪れます。そこには調律を随分と長い間されていない古ぼけたピアノが置いてありました。バーのマスターはクリスチャンの好奇心を察知して弾くことを促し、そこからクリスチャンは再び音楽を奏で始めます。しかし、またもや〈ウォッチャー〉に察知され、今度は二度と音楽活動が出来ないようにと厳しい身体的な罰を与えます。次に作業現場に移されたクリスチャンは、歌好きの作業仲間からの執拗な誘いによって、歌唱を始めました。美しい歌とその歌声は作業員たちを魅了し、別の現場に行っては伝染するように歌を広めていきます。そして、またもや〈ウォッチャー〉に気付かれたクリスチャンは、今度は歌うことの出来ない身体にされてしまいます。もはや音楽に携わることが困難な身体となったクリスチャンは、〈ウォッチャー〉へと任命されました。
淡々としたカードの語り口は、全体主義社会の「冷たい幸福」をより一層に際立たせています。クリスチャンの苦悩や絶望、非人道的な罰を与える描写、社会が「冷たい幸福」のために法律を遵守する態度など、芸術の間違った在り方を滔々と語ります。また、さり気なく語られる〈ウォッチャー〉として「真の意味での幸福」を社会に与えた彼の功績は、才能を持った芸術家としてだけでなく、人間として実に「正しい道徳感」を持ち得ていたことを垣間見せ、クリスチャンの人間として生きる姿勢を読み取ることができます。そして、全篇を通して心理描写を細かく描かれることがなかったなか、終幕においてクリスチャンの心が僅かに描かれ、とめどない感動が押し寄せてきます。
無伴奏ソナタの代表的な作曲家としては、やはりヨハン・ゼバスティアン・バッハが挙げられます。1720年にバッハが作曲した「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」(BWV1001-1006)は、三曲のソナタと三曲のパルティータで構成されています。この三曲のソナタは四楽章が「緩→急→緩→急」という「教会ソナタ」と呼ばれる形式で作られ、厳かな空気を漂わせる曲に仕上げられています。無伴奏であるが故に、ひとつの楽器で奏者の魅力と能力を最大に表現することが望まれる楽曲は、含まれる熱量は激しく、芸術を極めんとする奏者の覚悟も伝わってくるほどです。伴奏や装飾のない「無伴奏のソナタ」は音楽の追究的な側面を見せて、聴く者に有無を言わさずその世界へと引き込む力を持っています。
クリスチャンは、自身が抱える芸術性とその意思を体現することに特化した教育を受け、芸術活動そのものが「生きる」ということに結びついていました。究極の音楽を奏でるため、既成の音楽から隔離され、自然界に存在する音のみを吸収して作られた彼の音楽は、誰にも頼らずに「ただ一人」で追究した作品として描かれます。しかし、他者からの誘惑や自身の音楽的衝動によって結果的に法律を侵すことになり、奏でる手段を非人道的に削ぎ落とされました。もはや奏でることのできなくなったクリスチャンでしたが、その芸術に対する姿勢、音楽に対する姿勢は、潰えることなく心のなかで奏で続けました。そして彼の芸術性が理解され、その作品が残り続け、さらには賞賛され続けることに彼はある種の報いと結果を見ることができました。このようなクリスチャンの生き方、もしくは生涯そのものが「無伴奏ソナタ」であり、読者はその生涯の持つ芸術性を受け止めることで、大きな感動を与えられます。
終幕の情景から聴こえてくる「クリスチャンの歌」は、彼の芸術性を肯定するとともに、全体主義に苦しめられた芸術家の苦悩をも含んでいます。そして、読者には聴こえるはずのないクリスチャンの悲哀を帯びた音楽が、彼の心を通して伝わってくるように感じられます。カードは、ただ無慈悲な社会を描いたわけではありません。全体主義とその社会に甘んじる大衆の愚かさを描きながら、それでもペシミスティック(厭世的)に陥らずに、芸術としての可能性とその強さを信じて希望を失うことのない物語を描いています。強制して芸術が創られるわけがないという主張は、クリスチャンの心の傷が証左として提示されています。
本書は前述の短篇『エンダーのゲーム』も収められているだけでなく、毛色の違う優れた作品が多く含まれ、幅広い分野に精通したカードの知性と才能を感じさせる贅沢な短篇集となっています。未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。