5月25日から30日までの日記。

ただの日記です。

【五月二十五日】

姉の家に住み着くようになってから、恋愛ドラマに詳しくなってしまった。きっかけは、時間を持て余す中で姉と一緒にAmazonプライムに上がっている動画を片っ端から観ている中で出会った恋愛リアリティー番組、バチェラーとの出会いだった。バチェラーとは、二十人の女性が一人の高スペックな男性と結婚するために、女の争いを繰り広げる恋愛リアリティー番組だ。この手の番組にはまるで一切興味が沸いたことがなかったが、フィクションだと割り切って見ると混沌とした人間関係の泥臭さを見るのがなんだかとても楽しい。人と会わない生活が続いているからこそ、テレビの中で繰り広げられる非現実的な人間関係に刺激を受けてしまうのだろう。

朝に受けたよく分からない企業のWeb面接では、
「自粛期間で溜まっているストレスをどうやって解消していますか」
などという質問を投げかけられた。ストレスも何も、他人と会わずに姉と一日一話ずつ、酒を飲みながらつまらない恋愛番組を見る日常は、私にとっては最高に心地よい。「そもそもゼロのストレスをどうやって解消しろと……?」という疑問を抱きながらも、適当にそれらしい答えを並べた。目を輝かせながら面接を受けていた別の就活生は、「英語の勉強をしてストレスを発散しています!」だとか、「Zoom飲み会などを通して友人と就活についての情報を交換し、モチベーションを維持しています!」などと張り切って答えていた。馬鹿か。たかが飲み会ごときに「就活へのモチベーション」なんて持ち込んでくる友人なんて、気持ち悪いだけじゃないか。ZoomであれSkypeであれ、飲み会は不要不急のバカをさらけ出すためだけの場所だろ、クソ野郎。でもどうせそういう器用な答えを言うやつが受かるんだろうな。ふてくされた心を抱えて、テレビの電源をつける。
「今日スーパーで大量の発泡酒買ったから、どれが一番ビールに近いか飲み比べながらバチェラー見ようぜ」
姉がレジ袋を抱えながら、嬉しそうに話しかけてきた。
そうそう、そういうの。そういうのでいいんだけどなぁ。発泡酒の蓋を開け、ぐいっと足を伸ばしながら、私はソファに座り込んだ。


【五月二十六日】

今日も私たちはバチェラーを見る。シーズン1を観終わってしまったので、今日はシーズン2から。
最近は同じような恋愛リアリティー番組「テラスハウス」に出ている女の子が、ネットで受けた誹謗中傷が原因で自殺してしまったらしく、番組打ち切りのニュースの通知が携帯に表示されていた。彼女のことを思うととても気の毒だが、恋愛リアリティー番組を真実だと思って一方的に叩くような人間がいるなら、その人たちも気の毒だ。恋愛リアリティー番組なんて作られたドラマだと割り切って、仲の良い人と毒を吐きながら見るくらいがちょうどいいのに。

一話目を観終わったところで姉がタバコを持ってベランダに出たので、私もそれに続いて外に出る。どちらかがタバコを吸い始めたらもう一人も一緒に外に出てタバコを吸い始める、というのも、最近の私たちの日課だった。

「私、明日から出社することになってん」
煙を吐き出しながら、姉が呟いた。
「んん、じゃあこのニート生活も終わりか」
「働きたくないよぉ」
姉が悲しそうにぼやく。去年の今頃は、止まったら死ぬマグロみたいに毎日寝ずに働くことを楽しむワーカホリックだったのに、この自粛期間で仕事がなくなってから、姉は別の意味でマグロになってしまったらしい。
「そうかぁ、さみしなるなぁ」
とだけ、返事をした。
本当は、私もそろそろ家に帰らなければならない。
姉の家で居候を始めたのは、まだ冬の寒さが残っていた四月の半ば頃だ。緊急事態宣言を受けて娘を心配した母親が、解除されるまでは二人で暮らすことを勧めて来たのが主な理由だった。だが、そろそろ社会は元どおりになり始めていて、授業も始まったし、対面の面接の予約も増え始めていた。明日には緊急事態宣言が解除される今となっては、私もこの家にいる必要がなくなってしまう。季節が変わったことを教えてくれる五月の生ぬるい風を感じながら、
私も、そろそろ自分の家に帰らなきゃなぁ。
そう言うつもりだったのに、何も言い出せないまま、姉は部屋に戻ってしまった。

ソファに座り、つけっぱなしにしてあったテレビを巻き戻した。相変わらずわざとらしい演出の恋愛番組が画面に映る。
明日仕事だと言ったのに、姉がテレビを消す気配はない。女の子の言動に一喜一憂し、涙を流しながら、テレビに食い入っている。ばかだなぁ。そう思いながら、私もまた、テレビの画面に集中した。


【五月二十七日】
いつの間にか空が明るくなり、バチェラーがあと三話で終わるというところで、突然の腹痛が襲ってきた。
今日は五月二十七日。私には原因がわかる。アイツだ。
トイレに行き、「アイツ」の有無を確認して、肩を落とす。人と会う機会も減り、化粧もオシャレも全くしなくなったというのに、嫌というほど私は女だ。さすがにこれ以上テレビを観るのは自分の体にも姉の仕事にも良くないので、テレビの電源を切った。姉がベッドに横になったので、私もソファに寝転がる。

目を覚ますと、部屋の中はがらんと静まり返っていた。
朝までテレビを観たのにほとんど寝ずに会社に行ける姉の体力に呆れるが、出しっぱなしだった食器は全て洗ってあって、冷凍庫の中には私がいつでも食べられるようにと、夜ご飯の残りが冷凍してあった。
なるべく家事を手伝うようにはしていたし、姉のためにご飯を作った日も何度かあったが、改めて、世話になりっぱなしだな。電子レンジにご飯を突っ込みながら、「お金がない」とぼやいていた姉を思い出す。直接口には出さなくても、私の存在がそれなりに姉の生活費を圧迫していることに、私は気づかないふりをしていた。

帰ろう。
私には、私の家がある。

荷物をまとめた。お金をおろし、服も姉の家に来たときの服(ヒートテックとセーター……。)に着替え、携帯を開いた。

「姉ちゃん、私、そろそろ自分の家に帰るね」

ラインだと、直接言えなかった言葉も容易に送れる。
よし、このまま家を出てしまおう。
そう思ってドアを開けようとしたときに、返事が来た。
「じゃあ今日はお別れ会として、焼肉食べて、バチェラー見ちゃお」

こういう優しさが、ずるいなぁ、と思う。
「いいね」
カバンを床に置いて、そう、返事を打った。

【五月二十八日】
「ちょ、9時半だよ」
起きてすぐに携帯を見た私は、慌てて隣で寝ている巨体を揺らす。がばりと飛び起きた姉は、目を見開いて時計を見た。
「え、まじ、遅刻」
「言うてるやん」
「うわ、なんかめっちゃ顔が腫れとる」
「バチェラーで泣きすぎやろ」
「やばやば、いってきます。ごめん、ゴミ捨てお願い。」
「ほいな」
「あ、あ、財布忘れるところやった」
「何回目やねん」
「いってきます」
「はい、気をつけて」
足音を響かせながら家を出る姉を、呆れながら見送る。
いやというほどあっさりした朝だ。

誰もいなくなった部屋でひとり、百均で買った封筒に、軽い感謝の手紙を書き、今まで沢山世話になった生活費の一部を忍ばせた。

姉と一緒にいる間、結局、「さようなら」とか「今までありがとう」といった類の言葉は直接言えないままだった。
まぁでも、そっちの方が全然いいか。
やたらと泣いたり、感傷に浸ったりするような別れは嫌いだ。


「自粛期間のストレスはどうやって解消していますか」
そんなことを聞いてきた面接官がいた。私は他の就活生の「模範解答」を聞きながら、「ストレス」とやらについて考え、しどろもどろに口を動かしていた。
でも、この三週間、私は姉と毎日くだらない動画や番組を見ていて、人と争うことも余計に動揺させる情報も一切ない閉ざされた空間の中で過ごす時間は、確かに、たまらなく楽しい日常だったのだ。

大きなリュックとゴミ袋を抱えて、私は姉の部屋の鍵を閉めた。

【五月二十九日】
やはり一ヶ月近くも家を空けていると、変わったことがたくさんあった。
そもそもゴミを出し忘れていたので、ゴミ箱あたりが異様に臭い。長らく使っていなかった排水口からは下水の匂いが上ってきていて、どこから湧いてきたのか、兄の友人の死体が浮かんでいる。(私の実家ではコバエのことを「兄の友人」と呼んでいる。)冷蔵庫の中に入れっぱなしだったキュウリは触ると崩れるくらい柔らかくなっていて、芽が伸びすぎたジャガイモは人間の言葉が分かるようになっていたし、賞味期限の切れた卵からはヒヨコが孵っていた。
地獄だ。
まだ生きている虫とは遭遇していないが、どこでゴキブリが眠っていたっておかしくはない。軽く掃除機をかけただけで、埃が鼻に入ってくしゃみと涙がぽろぽろ出てくる。外から入ってくる空気でさえお化け屋敷のように体を撫でてきて、自分の家のはずなのに、どうしようもなく不気味だ。
ツイッターを開くと、世間は「ブルーインパルスが飛んでいた!」という話題で持ちきりだった。医療従事者への激励のメッセージを込めて、航空自衛隊のブルーインパルスとやらが空を飛んでいたらしい。私の家は窓が曇りガラスで小さいから、全く気がつかなかった。世間が一体となって空を見上げている間、私はパンドラの箱と化したゴミ箱の匂いに悶絶していたと言うわけである。言われてみれば外は呆れるくらいに晴れているのに、なんて閉塞的な一日なんだ、くそったれ。
居心地の悪さがたまらなくって、私はパソコンを持って家を飛び出した。

緊急事態宣言が解除されてから外出した人が増えた、なんて言われているけれど、私はずっと引きこもっていたので、今の状態が増えたのか減ったのかもよくわからない。だが、なんとなく入ったマクドナルドは席がほぼ全て埋まっていて、みんな普通に喋っている。つい最近まで店内の座席は利用できなかったはずなのに。端っこに座り、パソコンを開いて受講画面にアクセスする。

「早く外出したい」
「俺たちの日常を返せ」
そんな言葉を、この一ヶ月間、何度も聞いた。私も、そんな言葉に共感していたし、いつか外を出歩ける日々を待ち遠しにしていた。
けれど、このまま世間が動き始めて、本当に日常は「戻ってくる」のだろうか。この期間に与えられた生活は、本当に「非日常的なもの」だったのだろうか。私たちが過ごした時間は、本当に、奪われた時間だったのだろうか。

じわじわと日常が取り戻される感覚。
じわじわと、日常が奪われていく感覚。

眠くなりそうな授業の音声を聞きながら、人が行き交う窓の外を眺めていた。



五月三十日】
朝、十時に目が覚めた。姉の家で毎日夜更かしをしていたときはいつも朝に寝て夕方に起きる生活が続いていたので、なかなか上等な朝だ。
洗濯機を回し、風呂に入って、布団を干し、掃除機をかけ、ご飯を作る。
最近はこういった類のことは(風呂を除いて)分担していた(とはいってもだいたい姉がやってくれていた)ので、改めて一人暮らしの家事の多さには辟易する。床を拭いた雑巾についていた大きなゴミがなぜかゴキブリの卵に見えて、朝から部屋中に響く悲鳴をあげてしまった。自分でもなかなか聞いたことのない絶叫だ。壁の薄いアパートなので、お隣さんには大変申し訳ない。
少しジョギングをして、買い物をし、家に帰って気持ち程度の勉強をして、午後からはゼミがあるから、それに備えてまた軽い掃除をする。久しぶりに生産的な一日を過ごせそうだ。

だが、そう思っていたのも束の間。体調の異変に気がついたのは、ゼミが始まる一時間ほど前だ。
鼻がムズムズしてくしゃみが止まらず、変な汗が出てくる。
熱を測る。37.2度。まさか感染したなんてことはないだろうけれど。
パンドラの箱と化したゴミ箱に、横目をやる。昨日、ほんの少し開けただけでえげつない地獄の匂いが漂ってきたのを思い出す。今はやりの感染症なんかよりも、ずっと病原菌を持っていそうであることは間違いない。私の体調不良だって、きっとあいつのせいだろう。
チクショウ、ツいてない。やっぱり、一人暮らしなんてやってられっか。
久しぶりに心が荒れたので寝ようにも、布団はなんだか埃臭くて落ち着かない。仕方なく布団を干して、今日は床で寝よう。


「自粛期間のストレスはどうやって解消していますか」
そういえばこの質問に、「人を殺すゲームを毎日しています」と答えていた青年がいた。面接官は笑っていたけれど、今なら、少しだけ彼の気持ちも、この質問の意味も、わかるような気がするな。
干した布団の埃を吸って大量のくしゃみを連発しながら、そんなことを考えた。


オ…オ金……欲シイ……ケテ……助ケテ……