「『自立した持続可能な地域を増やす』というビジョンに共感し新たなチャレンジへ」 宮内俊樹さん 〜モトヤフインタビュー〜
-本日はよろしくお願いいたします。最初にお名前をフルネームで教えてください。
本名が宮内俊樹です。音楽ライターとしてのペンネームでは名小路浩志郎(なこうじ・こうしろう)と名乗っています。名小路は祖母の実家の名字なんですよ。本とか音楽とかが大好きなサブカルチャーの人間です。
-ご年齢はおいくつですか。
55歳です。
-お生まれや現在のお住まいの地域をお聞きしても良いですか。
生まれも育ちも東京です。が、誕生した病院は父母の在所である長野県飯田市でした。
-では社会人になられてからのこれまでのプロフィールをお聞きします。
社会人スタートは(株)学生援護会でした。そしてその頃から音楽ライターとしても活動していて、音楽雑誌などに連載執筆もしていました。
2006年10月にYahoo! JAPAN(ヤフー)に入社し、主にメディア・プロデューサーを務めました。ヤフーを退職したのは2020年10月です。約14年間の在職中は社会貢献の責任者、大阪開発本部の本部長、Yahoo!天気・災害、乗換案内やオープンイノベーションのユニットマネージャー、TechBaseVietnumの会長なども経験してきました。
その後ディップ(株)に入社し執行役員やdip総合研究所の所長を務めました。dip総合研究所には今年の4月までおりまして、この5月からは「トラストバンク」に転職し、ふるさとチョイス事業本部でふるさと納税のサイト運営などに関わっております。
また株式会社フィラメントには2018年から、I-レジリエンス株式会社には2021年の11月から、スパイスファクトリー株式会社には2023年6月から、それぞれ関わっております。2019年6月〜2022年3月には京都芸術大学の客員教授もやっていました。マルチキャリアが信条です。
-ヤフーに入ったきっかけは何でしたか?
38才くらいの時に、狭き門で古い体質の出版社ではなく、オープンな風土で伸びていくIT業界のほうが面白いなと思い、ヤフーに応募して入社しました。2006年当時のオフィスは六本木ヒルズでしたね。面接は一次が高田正行さんと石原弘子さん、二次が影山さん、最終が喜多埜さんでした。社員数もかなり増えて既に当時は2400人くらいだったですね。
-ヤフーでのお仕事はどんな内容でしたか?
主にはプロデューサーとして、メディアに関わることが多かったですね。所属としては最初はサービス統括部(サ統)で石原弘子さんのチームに属してYahoo!きっずの仕事をしていました。「サ統」の結束はとても強かったですよ。その後は大阪開発部の本部長、そしてヤフー天気・災害のユニットマネージャーなども経験しました。
-ヤフー時代のエピソードなどをお聞かせ下さい。
ヤフー時代に大阪に転勤になった期間が3年半ほどあって、赴任地は当然大阪市内だったのですが、住まいは京都を選びました。京都の方が大阪よりもスタートアップベンチャーが多かったことも京都を選んだきっかけでした。そういう開発スタイルを目指していたので。宮坂さんからは「お前を京都に転勤させた覚えはない」と言われましたが(笑)。
大阪に赴任した当時に「強いチームはオフィスを捨てる」っていう本がありまして、それにすごい影響を受けたんですよね。シリコンバレーのベンチャーってみんな世界中と仕事してるのに、何で日本は東京一ヶ所に集まらないとできないんだよって。
大阪がサブで東京がメインって感じだったので、すごいアウェイ感を感じたんですけれども、このIT化の時代に東京がメインの必要性って何があるんだろうとかいろいろ考えてたんです。
「リモートで仕事をするって、世界的にはそれが普通だよ。僕らはそれにチャレンジしていこうぜ」みたいな話を当時していたのが、本当にコロナによって現実化してしまったみたいなところはあると思います。
優秀な人って日本中のどこにいるかわからないし、どこにいても働けるようにするべきだし、どこでも採用できるようにしないともったいない。僕が大阪でやったことって、それを一つの組織にして、成果を出せるようにしたっていう事なんですよね。
Yahoo!天気のアプリユーザーをそこで3年で10倍くらいに伸ばしました。アプリのリニューアルをして、めちゃめちゃ使いやすいっていう評価を日本中からいただいて、それをアウェイの大阪のチームが作ったっていうのは、会社にとっての貢献だったんじゃないかなと思います。
その他にももう一つエピソードとしてとても印象的なのは、やっぱり3.11ですね。僕はネット募金の担当をしてたんです。募金ページをすぐに開設して、寄付を募ったら13億円ぐらい集まったんです! 多分それ今もレコードなはずなんですけど、それぐらい多くの人が東北のためにできることが何かを探していて、募金もしたいと思っていたということです。
でも、その受け皿がまだ日本中どこにもなかった。従来はNHKが募金を募ったりするんですけれども、NHKもまだ間に合わず、しかも土日も挟んでいましたので、その日のうちに立ち上げたのは、日本中でヤフーだけだったはず。すごく重要なことをやってるんだなっていうのを痛感するようになったし、スタンスも考え方もすごく成長しましたね。
-井上さん、宮坂さん、川邊さんという3人のヤフーのトップのもとでお仕事をされてきた中で、それぞれの方々から学んだことはどんなことでしたか?
震災後に会社が宮坂体制に変わり、社会貢献の担当部署が本部格でできたんですよね。私はその責任者に抜擢されたので、世の中の課題のために何ができるかっていうことに関して宮坂さんや川邊さんの薫陶を直接受けるようなことも多かったですね。
新体制になったときに宮坂さんから聞いた言葉に深みがあって、すごく影響されました。「脱皮しない蛇は死ぬ」とか「力なき志は無力、志なき力は暴力」とか。あと宮坂さんにいろいろ厳しく言われても、あんまり悪い気がしないんですよね。厳しく言われると悔しいんだけれども、「やったろーじゃんか」みたいな気持ちになる。
また社会貢献のサービスの多くは川邊さんが立ち上げていたりするので、社長になる前からも川邊さんに指示を仰いだり、意見を交わしたりみたいなことはありました。そんな感じで付き合いが長いので、忌憚なく話すことも多かったです。ただやっぱりスタイルとしてはわりとストロングスタイルというか、リーダーシップも強い方なので、言い合うこととかもあったりもしました。1回めっちゃ喧嘩したことがあって、帰ったら「思ったことを言ってくれて、真剣にやってるのがわかったからむしろ良かった」っていうメールが後で来たので、本当に器がでかい人だと感じました。
井上さんはもうなんか本当に雲の上みたいな人だったので、頭の良さですかね、それに本当にいつも驚かされてましたし、こんな社長いるんだなっていうふうにいつも思っていました。拙い説明をすると「お前の説明は分からん!」とよく怒られていました。
-辞めたから分かるヤフーの良さというものはありますか?
「インターネットに何ができるのか」っていうのを、常にみんなが考えていて、それまでの経験の蓄積が大量にあって、改善して事前に準備しておけるってのがヤフーのすごいところですよね。だから3.11の危機のときにも、さまざまな課題解決ができたのだと思います。
-ネクストキャリアとしてディップを選んだ決め手は何でしたか?
ヤフーに15年近くいたので、どこか手なりで仕事ができてしまう部分もあったし、なので新しい事に更にチャレンジしたいなとも思っていました。そしてその頃からもう既に自分は副業とかも含めて複数社とお仕事をしていたりしていて、マルチキャリア化がどんどん進んでいました。
また、コロナ禍もあって社会の変化がすごい大きい中で、「人生100年だから、もう1社何か別のことで成長ができるんじゃないか」って思っていたこともあります。
そのときにちょうど志立さんからもお声がけをいただいて、「プロダクトを良くしてくれ」と言われてですね。「プロダクト良くするなら任せてくれ」という感じで即答したという、そういう経緯ですかね。
2020年から2022年まではディップの執行役員の立場で、バイトル等のサイトの責任者をやりました。バイトルのアプリの品質を上げたので、2022年に大量のプロモーションをやって、競合よりも使われるアプリにすることができましたね。ティップには志立さんがCOOの立場でおられたり、ほぼ入れ違いでしたが浜辺さんも執行役員でした。
-今回更にネクストキャリアとしてトラストバンクさんを選ばれた決め手は何ですか?
もうこのまま自分で独立するとか、複数社でいろいろやるとかっていう選択肢も全然あり得るなとは思ってたんですけれども、やっぱり「本質的に自分がやりたいことって何だろう」といろいろ考えたときに、「割とそれってローカルに全部詰まってるな」と思ったんですよね。
例えば、「地域コイン」であったり「ローカル経済」であったり、その経済の大元にある「政治」であったり、あとは「文化」や「まちづくり」、さらに「エネルギー」や「雇用」。そういった自分の全ての興味関心が結構「地域」に集約されてるなって思ったんです。特に京都に引っ越したり、単身赴任したこととかもきっかけになってますけれども、もう東京偏重である必要ってあまりないんじゃないか、ってことですね。
そのときに、トラストバンクを紹介されまして、会ってみたら、すごく面白い会社で、「自立した持続可能な地域を増やす」というビジョンに共感してジョインしようって決めました。
-話は変わりますが、ユニークなキャリアの「名小路浩志郎」としての音楽ライター活動についてもお聞かせ下さい。
小学生くらいから音楽が好きで、レコードばかり聴いてました。その後社会人になってから先輩にも勧められて音楽ライターを始めて、音楽雑誌に原稿を連載したりしてきました。ちなみに今部屋の後ろに映っている棚にあるのは全て音楽CDです。
ミュージックマガジンとかクロスビートといった古い雑誌で評論やインタビューをずっと書いていましたね。副業が解禁になる遙か以前からずっと続けてきていて、確かヤフーの入社時にも、採用の決め手になるかなと思って、「音楽ライターを実はやってるんですよ」って自慢したんですけども「弊社は副業は禁止されております」と言われてですね。「あぁ、ペンネームでよかった」みたいな感じでした(笑)。
-現在のトラストバンクさんでのお仕事は具体的にどんな内容でしょうか?
トラストバンクは、ふるさと納税のポータルサイト運営の会社です。社会貢献、ソーシャルグッド、ソーシャルインパクト的なサービスの責任者としても執務しております。ふるさと納税って返礼品もあれば、返礼品でない形で「地域の課題を解決したい」っていうプロジェクトを支援する形のものもあって、ガバメントクラウドファディングっていうんですけど。いわば寄付というか、そのサイトの責任者を現在はやっています。
-今はトラストバンクのご本業以外にもフィラメントでは チーフカルチャーオフィサーを、またI-レジリエンス株式会社ではエバンジェリストとしてご活躍のようですね。
「フィラメント」は大阪市の公務員をしていた角勝さんが立ち上げた会社で、大企業の新規事業の伴走支援するコンサルティング会社ですね。そこで「コンサル事業」であったり、チーフカルチャーオフィサーとしての立場で、会社のカルチャー作りや、伴走支援をする会社のカルチャーの支援とかといったことをやっています。角さんは私が大阪に行って初めて仲良くなった大親友で、当時の上司だった村上臣さんに紹介したらこれまた意気投合して、そんな訳でフィラメントのCSOは村上臣さんがやってます(笑)。
もう一つの「I-レジリエンス」というのは、防災科学研究所が作った企業になります。ここは地震とか災害とかをビジネスによって課題解決していく事業をやっています。同じエバンジェリストに、ホンダでインターナビを作った今井武さんや、楽天で常務執行役員をやられていた高橋理人という大先輩2人がいるので、めちゃ刺激になっています。
それから、この6月からはスパイスファクトリーという会社の「チーフパートナーシップディレクター」になりました。ここは東京都のアジャイル開発のプレイブックも作ったユニークな開発会社で、地域におけるアライアンスや産学官連携のミッションをいただいてます。
-京都芸術大学でも客員教授をされていましたが、こちらはどのようなことを具体的にされていましたか?
震災後に知り合った知人が京都芸術大学に赴任して、「そこで新しくプロジェクトを始めたいので、招聘教授を何人か探してる」ということで僕は呼ばれたんです。授業はやってなくてですね、主に企業間とプログラムを作ったりイベントを立ち上げたりとか、なんかそんなことをやっておりました。
-改めて現在の仕事の面白いところや素晴らしいところを教えて下さい。
副業が一般化したので、いろんなスキルを生かして働けるようになったのがいいですね。人の興味関心って一つではないし、いくらでも違う自分がいるので。それは個人にとっても会社にとっても良いことだと思います。日本って人材のパイはどんどん減っていきますから、一人何役もこなさなきゃいけないわけで。会社にとっても副業人材の活用は有効なはず。
僕の場合は、さまざまな副業をやりつつも、これまでのキャリアを統合する形で「地方創生」をメインに取り組んでいけるので、それぞれの仕事でシナジーが生まれると思っています。
-今、特に力を入れていることは何かありますか?
バナナを鉢植えで育てています。本当は庭木にしたかったんですけど、妻に反対されまして (笑)。自分の名前に「樹」があるので、植物は好きだし、観葉植物も部屋で育てているので南国みたいにしたいと思っていたんです、沖縄も大好きだから。で、「バナナってどうやって育てるのか、種ってあるんかな」って知的好奇心でいろいろ調べたら、株分けされた苗をヤフオクで買うのがメインストリームだってことが分かって。「マジかよ」と。
で、昨年から育て始めて、あっという間に自分の身長くらいまで伸びたんですけど、何の対策もしなかったので案の定越冬はできずに枯れまして。でも茎はしっかりしていたので、しっかり水やりをやっていたら葉が出てきて、あっという間に再生しました。
早く自分が育てたバナナで、チョコバナナがしたいです。
-ご家族以外で尊敬している方がもしおられたら教えて下さい。
西郷隆盛がずっと好きで「敬天愛人」を目指して生きてきたんですが、コテンラジオの高杉晋作を聞いてからはそっちを尊敬しています。人生の残り時間はそんなにないかもしれないので、「やりたいことをやって死のう」と思っています。
-コロナ禍で生活とかが変わってしまったことはありましたか?
コロナ禍でジムに行かなくなってしまい、あんまり身体動かさないようになっちゃったので、そこを改善しないとな、とは思ってます。ステイホームでコンテンツが爆増しましたので、もともとサブカルの人間ですから観たいものが多すぎて、どうにも時間が足りないのが現状です。
リモートワークはプラスの面もありますけど、やっぱりずっと続けるとストレスになったり、周りとのコミュニケーションが希薄になってしまう面は当然ありますよね。
-ライフワークは何でしょうか?
抽象的なんですけども、点と点を繋ぐのが自分はすごい好きだし、得意なんですよね。スティーブ・ジョブズが言っていたコネクティング・ザ・ドッツですね。最近はDJっぽく「接続」って言うようにしてますけど。
デジタルの世界に僕はずっといますが、その前は編集者をやってたので、どちらかというと人文学よりの人間なんです。だからその間にある溝を埋めたり、点と点を繋ぐような仕事をしていきたいなと思ってます。点と点という意味では人も同じで、やっぱり出会えてない人と人を僕が媒介になって繋いであげることで、社会に価値が提供できる。そんなことができたらいいなと思っています。
-イマヤフに伝えたいひとことをお願いします。
僕自身ヤフーの中でもそんなメジャーな部門にいたわけではなく、ヤフーニュースをやってたわけでも、ヤフオク!をやってたわけでもないんですよね。
でも突然3.11東日本大震災が起きて、会社の課題解決の先頭に立つような経験をしたので、やっぱりヤフーのいいところって、そういう世の中をダイレクトに動していく仕事ができること。そこで自分がいつ主役になるかわからないので、常に打席に立てる用意をしておくのがいいんじゃないかなっていうのを、イマヤフの方には伝えたいですね。。
-モトヤフに伝えたいメッセージをお願いします。
僕はヤフー入ったのも38歳で比較的遅いんですよね。自分の人生は大体5年は遅れてると思っているので、55歳からでも、何かを始めるに遅いってことは絶対ないって信じています。仮に遅かったとしても、幸いなことに世の中が人生70歳まで働けとか言ってるわけで、働く期間の方が延びていったりしてる。
なので、70歳まで働けるように、体力的にも精神的にも無理をせず、ベテランにしかできないバリューの出し方で、楽しい仲間と良い仕事をしていけたら、すごい人生ハッピーだなと思ってます。そのために「転職という手段を使うのもまだまだありですよ」ということを伝えたいです。
-読者に伝えたいメッセージをお願いします。
歳を取れば取ったなりの強みや理想の働き方ってものがあって、50歳を超えてからは老害にならずに若い人の役に立ちたいと常々思っています。最近「人生はご縁でできている」ってよく言うんですけど、この記事を読んでいるのも何かのご縁ですから、相談したいこととかあったらいつでも何でもウェルカムです!
-宮内さん、本日は大変ありがとうございました!
(本日のインタビューは川村英樹が担当しました)
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