『周書』明帝紀の遺詔をつまみ読むよ。
Twitterで『周書』明帝紀にある遺詔に触れたら読みたくなったんだけど、読むならメモっておきたいところ。ただ、Twitterには長いし、カクヨムのアカウントは逃げているし、どうしようかなーと考えてみんなやっているnoteにアカウントを作ってやってみっかな、ということです。https://twitter.com/rivereastbamboo/status/1253939211872305153
明帝=宇文毓(うぶんいく)は宇文泰(うぶんたい)の長子にして北周の二代皇帝、なんで長子なのに初代皇帝じゃないかと言うと母親の家柄がいい弟の宇文覚(うぶんかく)がいたから。ただしデキは悪かった。デキの悪い弟が廃された後に即位したのが明帝。宇文覚の下には宇文邕(うぶんよう)というのもいて、これが後の武帝になります。
宇文覚にしても宇文毓にしても即位したのは自力じゃなくて、宇文泰の甥の宇文護(うぶんご)というオッサンに擁立された。そういうワケで実権は宇文護にあった。このあたりの経緯は複雑なので省略(すんな)。
宇文護は自分が擁立したのに明帝がジャマになったので毒殺しちゃう。その毒にあたって死ぬ前に口述したのが遺詔ということですわ。ホンマモンか捏造かはナゾ。それでちょっと読んでみたってワケ。
とりあえず、原文→訓読→訳文って感じでやっていきます。訳文は原型をとどめない超絶訳なのでそのへんご注意、意訳するにも程がある。
んじゃあさっそく読んでいくよ。
夏四月、帝因食遇毒。
訓読:夏四月、帝は食に因(よ)りて毒に遇(あ)う。
訳文:夏四月、明帝は食事に仕込まれた毒に罹った。
ふむ。食事に毒を入れられたワケですね。
皇帝の食事は尚食典御が司るわけでそうカンタンにはイカないわけで、この時点で組織的な犯行、しかもけっこうな高官が関与しているわけですよ。
庚子、大漸。
訓読:庚子(こうし)、大漸(だいぜん)たり。
訳文:庚子、重態に陥った。
大漸は病気が重くなった状態を意味しますな。本紀でよく見ます。
詔曰、
訓読:詔(みことのり)して曰く、
訳文:詔を下して言うに、
ここから遺詔スタート。ここまでは前座、ダマされましたね。
人生天地之間、稟五常之氣。
天地有窮已、五常有推移。
人安得長在。
是以生而有死者、物理之必然。
處必然之理、修短之間、何足多恨。
訓読:
人は天地の間に生じて五常の氣(き)を稟(う)け、
天地に窮(きゅう)し已(や)むありて五常に推移あり。
人、安(いずく)んぞ長らく在るを得ん。
是(こ)れ以って生まれて死あるは物理の必然なり。
必然の理、修短の間に處(お)り、何ぞ多恨(たこん)に足らんや。
訳文:
人は天地の間に生まれて五常の気をその身に受け、
天地さえ尽きることがあって五常は変転推移する。
どうして人が死なずにいれよう。
それならば生まれて死ぬのは必然である。
必然の理と限られた寿命にあってどうして死など恨むに足ろうか。
修短は長短と同じ、要するに長寿短命の意ですね。明帝という人は文学や清談を好んだ人で、詩歌も詠んだりします。どうもこの文章は本人の弁ではないかのう、という気もする。知らんけど。
朕雖不德、
性好典墳。
披覽聖賢餘論、
未嘗不以此自曉。
今乃命也、
夫復何言。
訓読:
朕(ちん)は不德(ふとく)と雖(いえど)も、
性に典墳(てんふん)を好めり。
聖賢の餘論(よろん)を披覽(ひらん)するも
未(いま)だ嘗(かつ)て此を以て自ら曉(さと)らず。
今、乃(すなわ)ち命なり。
夫(そ)れ復(ま)た何ぞ言わんや。
訳文:
朕は不徳の身であるが、
生来、書籍を読むを好んできた。
聖人賢者の論を歴読して
いまだかつて悟りに至った試しがない。
今、寿命を終えるのは天命というものであろう。
今さら何も言うことはない。
あらあら、あきらめモードですわね。
諸公及在朝卿大夫士、
軍中大小督將、軍人等、
並立勳效、積有年載、
輔翼太祖、成我周家。
今朕纘承大業、處萬乘之上、
此乃上不負太祖、下不負朕躬、
朕得啟手啟足、從先帝於地下、
實無恨於心矣。
訓読:
諸公、及び、朝にある卿、大夫、士、
軍中の大小の督將、軍人などは
並びに勳效(くんこう)を立て、積みて年載(ねんさい)あり。
太祖を輔翼(ほよく)して我が周家(しゅうか)を成す。
今、朕は大業を纘承(さんしょう)して萬乘の上に處(お)る。
此れ乃ち上は太祖に負(そむ)かず、下は朕の躬に負(お)わず、
朕は手を啟(ひら)きて足を啟きて地下に先帝に從うを得る。
實に心に恨むなし。
訳文:
諸公、朝にある卿、大夫、士、
軍中の大小の督將、軍人などは
みな勳效を立て長らく労苦を共にし、
太祖(宇文泰)を輔けて我が周王朝を建国した。
今、朕は大業を継いで皇帝の位にある。
みな上は太祖に背かず、下は朕を欺かず、
朕は父君の徳を損なわず地下で先帝にお仕えできる。
恨みに思う心はまったくない。
全体的にはJヒップホップみたいな圧倒的感謝、チェケラ。「手を啟(ひら)きて足を啟(ひら)きて」は出典を知らないとまったく意味不明。
これは『論語』泰伯第八にある「曾子に疾あり。門弟子を召して曰わく、『予の足を啟き、予の手を啟け云々』と」から来ていますな。
曾子は我が身を損なっていないか=親不孝になっていないかを問うたのですけども、ここでは「宇文泰の徳を損なっていないか」という感じで訳しておきました。
所可恨者、朕享大位、可謂四年矣、
不能使政化循理、黎庶豐足、
九州未一、二方猶梗、
顧此懷恨、目用不瞑。
訓読:
恨むべきところは、朕の大位を享(う)くるの四年なるを謂うべし。
政を化して理に循わしめ、黎庶(れいしょ)をして豐足ならしむ能わず、
九州は未だ一ならず、二方は猶お梗(つよ)し。
此を顧みて恨を懷き、目は用て瞑(つむ)らず。
訳文:
恨めしいのは帝位についてわずか四年に過ぎぬことである。
政治を理に従わせられず、民を豊かにもできず、
天下はいまだ統一できず、齊と陳は強敵として残っている。
このことを思うと恨みを抱かずにはおれず、安んじて瞑目できない。
恨みがあるのかないのかハッキリしろ。
実際のところ、周の朝臣に恨みはないが、自らの御代に天下統一できなかったことは痛恨事ということなんでしょうね。時に西暦560年、北周の武成6年、齊の廃帝=高殷(こういん)の乾明元年、陳の文帝=陳蒨(ちんせい)の天嘉元年ってわけです。
高殷は八月には廃立されて叔父の孝昭帝=高演(こうえん)が即位するのでまあ風前の灯だったわけですけども。
唯冀仁兄冢宰、洎朕先正、先父、
公卿大臣等、協和為心、
勉力相勸、勿忘太祖遺志、
提挈後人、
朕雖沒九泉、形體不朽。
訓読:
唯だ冀(こいねが)わくば仁兄(じんけい)冢宰(ちょうさい)、
朕の先正(せんせい)、先父(せんぷ)を洎(とど)め、
公卿大臣等は協和を心と為し、
勉力して相い勸め、太祖の遺志を忘るなかれ。
後人を提挈(ていけつ)せば、
朕は九泉に沒すと雖も形體は朽ちざるなり。
訳文:
願わくば、仁兄たる冢宰(宇文護)は
朕の父祖のことを心に留め、
公卿大臣は協和を旨として
勉励して政治に務め、太祖(宇文泰)の遺志を忘れるな。
若い者たちと助け合ったならば、
我が身が黄泉に沈んでも我が業は不朽となるであろう。
分かりにくい。
洎は「止まる」の意、目的語は先正・先父なのでご先祖様としましたけど、さてな。提挈は「助け合う」とかそんな感じなので「若い世代と協力せんといけんよ」って感じ?
あからさまに毒殺の下手人の宇文護に「仁兄」と呼びかけているところがエモい。冢宰は大冢宰(だいちょうさい)、北周の宰相とでも思ってくれたまえよ。北周は六官制なんで分かりにくいですね。
今大位虛曠、社稷無主。
朕兒幼稚、未堪當國。
魯國公邕、朕之介弟、
寬仁大度、海內共聞。
能弘我周家,必此子也。
訓読:
今、大位は虛曠(きょこう)にして社稷(しゃしょく)に主なし。
朕の兒は幼稚にして未だ國に當るに堪えず。
魯國公の邕は朕の介弟(かいてい)、
寬仁大度、海內(かいだい)の共に聞くところなり。
能く我が周家を弘むるは、必ずや此の子ならん。
訳文:
今や皇帝位は空位となって社稷の主はいない。
朕の子は幼く、いまだ国政にあたるに堪えぬ。
魯國公の宇文邕は我が弟であり、
寛仁と大度は世に知らぬものもない。
我が周王朝を盛んにするのは必ずやこの者であろう。
ここで、明帝は自分の子ではなくて弟の宇文邕に帝位に即くように命じておりますな。宇文護の捏造なら傀儡にしやすい明帝の子を即位させる気もする。あるいは、それでは誰も従わないと見たのか。わりとナゾ。
夫人貴有始終、
公等事太祖、輔朕躬、
可謂有始矣、
若克念世道艱難、輔邕以主天下者、
可謂有終矣。
哀死事生、人臣大節、
公等思念此言、令萬代稱歎。
訓読:
夫れ人は始終(しじゅう)あるを貴(とうと)ぶ。
公等は太祖に事(つか)えて朕の躬(み)を輔(たす)く。
始ありと謂(い)うべし。
若し克(よ)く世道の艱難(かんなん)を念(おも)い、
邕を輔けて以て天下に主(あるじ)とせば、
終ありと謂うべし。
死を哀しみて生に事うるは人臣の大節なり。
公等は此の言を思念し、萬代をして稱歎せしめよ。
訳文:
人は何事にも終始をまっとうすることを尊ぶ。
公らは太祖(宇文泰)に仕えて朕を輔けた。
これは始まりと言うべきであろう。
もしもこの乱世の艱難の中にあって
宇文邕を輔けて天下の主とできれば、
有終というものであろう。
死者を哀しんでも生者に仕えるのが人臣の大節である。
公らは朕の言葉を忘れず成し遂げ、後世を賛嘆せしめよ。
後に武帝=宇文邕は齊を併呑して天下統一まであと一歩まで迫るので、なかなか先見の明があると言えましょうな。
こっからしばらく埋葬は質素にしろとか喪に服するのもたいがいにしておけとか色々と細かい指示があるので割愛。シメの一節だけ訳します。
時事殷猥、病困心亂、
止能及此。
如其事有不盡、准此以類為斷。
死而近思、古人有之。
朕今忍死、書此懷抱。
訓読:
時事は殷猥(いんわい)、病に困(くる)しみて心は亂るるも、
止めて能く此に及ぶ。
如し其れ事に盡くさざるあれば、此に准いて類を以て斷を為せ。
死するに思(し)に近づく、古人に之あり。
朕は今や死を忍び、此の懷抱(かいほう)を書(しる)せり。
訳文:
時事は煩雑な上に病苦で心気が乱れているが、
無理を推してここまで記した。
もし言及されていないことがあればこの言葉に従って判断せよ。
人は死に近づくと思考が透徹すると言い、古人に例もある。
我は死に耐えて心中を記すものである。
そういうワケで明帝の遺詔でした。
其詔即帝口授也。
訓読:其の詔は即ち帝の口授なり。
訳文:詔は明帝の口述したものである
辛丑、崩於延壽殿、
時年二十七、諡曰明皇帝、廟稱世宗。
訓読:
辛丑、延壽殿に崩ず。
時に年二十七、諡(おくりな)して明皇帝と曰い、廟に世宗と稱せり。
訳文:
辛丑、延壽殿にて崩御した。
享年二十七歳、明皇帝と諡され、廟号を世宗という。
これより北周は武帝宇文邕の御代となりますが、宇文邕が宇文護を誅殺するのはこの時から十二年後のこと、それまでは宇文護が北周に専権を振るったのでありました。
この詔は宇文毓のものか、捏造か。考えてみるのもオモシロいです。個人的には宇文毓の口述そのままじゃないかという気がするけど、どうかねえ。