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私は「自分がある人に擬態した、自分がない人」だった

私は「自分がある人に擬態した、自分がない人」だった

「〇〇君って、自分がないよね」

そんな言葉を耳にすることがある。

知り合いがなぜそのように言われているのか理解できていない。

自分自身、そのような言葉を向けられたことはないけれど、自分に自分があるとは思えていなかった。


けれど最近になってようやく、「自分には自分がなかったこと」に自覚的になれた。


これまでは、自分が好きなモノを知り合いが否定している姿を見ると、なんとなく好きだったモノへの好意が下がっていたように思う。

仲が良くなんでも言い合える友達であれば、「でも、ここが良くて」と食い下がることもできる。

けれど、よく知らない知り合いや、なんとなく自分よりしっかりしていそうな人、周囲に認められていそうな人が、自分の好きなものを否定している姿を見ると、途端に自信がなくなってしまう。

そんな自分に気がついた。


では、自分が尊敬するオタクの人たちだったらどうだろう。

自分の好きなモノを否定されたとしたら、自分の好きなモノの良さを伝えようとするだろう。

そこまでしなくても、「相手はそう考えるのね。自分は違うけど」と思うのだと思う。


自分自身についてもそうだ。

「ファッションにもっと気を使った方がいいと思う。男として、女としてこうあるべき」と言った言葉に晒されたとしても、「この人はそう考えるのね。自分はこう考えるけど」と思い、その思いのとおりに行動する。

良し悪しはあると思うけど、ダサいと言われてもファッションにお金を使うくらいなら、自分の好きなことにお金を使うと言うのは、一貫した自分があってこそだろう。

これまでの自分は、グラグラしていて、それができていなかった。

大学生でその服装は…
社会人でその身なりは…
社会人ならこれくらい…
いい大人がこんなことに時間使うなんて
もっとこうした方がいい。

「本心はこう」という意見そのものはあるけれど、本心にちょっとずず自信がなくなっていく。

そうして少しずつ、本心とは違う周りの影響で自分が作られていってしまう。

これこそまさに、”自分がない”なんだろう。

正確に言うのであれば、自分の意見がないわけではない。よく言えば素直で、吸収力が高くて柔軟。

悪く言えば、流されやすいわけではないが、押し流されてしまう。


とは言え、自分の意見は、自分以外の何かに接することで、育まれるものだと思う。

だから最初から自分の意見や自分を持っている人なんて存在しない。

違いはと言うと、自分が決めた自分の気持ちや意見について、他者と意見が食い違っても自信をもっていられること。

結局、自分の有無をわけるのは、『他者の感性よりも自分の感性を信じる気持ち』なのではないだろうか。

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