きりぎし(短編小説)3/4
(昭和世代 或る夏の夜の夢)
朝だとわかるやいなや、羞恥に似た嫌悪感がつま先まで広がり、全身が麻痺したようにしばらくは動けなかった。半身を起こし、周囲を見ると原因がわかった。
バスを待つ客が数人いて、こちらをチラチラのぞいていた。私の姿はかなり不潔だった。早いこと立ち退きたかった。それにしても、この吐き気はどうだ。生肉の臭気がする。
峰には雲がひくく迫り、川べりの道端の人はよそよそしかった。
小一時間、手押しで下り、モーターサイクル店に着いた。店先で、そこの主人らしいずんぐりしたおやじが、黒ずんだ鉄管を太ももに挟んでいじくっていた。声をかけても返事しない。
こんどは強めに、すみません、と呼んでみた。
ややあってこちらを向いたが、墓穴から這い出てきたモンスターみたいな面をしている。笑顔だけは返せそうな気がした。やってみてとても無理だとわかった。
そして言語機能を働かせ、昨夜以来身辺に起こったほとんどの出来事を、いたずらっ子が泣きじゃくりながら大人にする罪業の告白と同じ気分――絶望と救いの崖っぷちに立つ気分でもって、ちぎりちぎり伝達した。
相手はただの熊といってもよく、ぷいと裏口かどこかへ消えてしまい、長いあいだ戻ってこなかった。
「明日になるが、ええか」
店の外から唸り声がした。
行ってみると、バイクはすでに、かなり破壊されていたが、私は面食らいながら、頭のてっぺんからハーイと返答した。なおりさえすればいいのである。けっきょく次の日までその辺りに留まらなければいけなくなった。
八方山林で、ぽつりぽつりのプレハブ商店や民家、材木工場、ひなびた神社、バス停。集落をねじり這う河渕は、どこもどす黒いよどみばかりだった。極端に深いのでも流れが激しいのでもないが、ただただ、陰鬱に感じたのだ。
ところが山を見上げるときにだけ、気持ちが高揚した。朝からつきまとう底気味悪さは、山道を登ろうと考えるとましになる。それは旅に出る前とはまったく逆への手招きといってもよく、つまりちょこざいな「半人前巡礼」への誘いではなく、のっぴきならない、冷厳な生死に、しんじつ臨む悲鳴に似た呼び子なのだ。
決するとすぐ、貴重品やライトをバッグに入れてショルダーベルトをつけ、バイクは店主にあずけ、昼過ぎに登山道らしき細道へ入っていった。
登るにつれて上空の雲は切れ、うすく晴れてきたが、道しるべはどれも不明瞭で、四時か五時には果たして、自分の位置がかいもくわからなくなっていた。かまわずどしどし進んだ。その山塊も、大雨で崖崩れがひんぴんと起こったらしく、道がほとんど土砂に埋まったままの所もあちこちにあった。
奥へ来るほどひどく、しだいに道が道の体をなさなくなってきた。けれどますます気ははやり、あともどりが出来なくなることをむしろ望み、行けばよい行けばよい、とばかり念ぜられるのである。
と、またしても多量の土砂と倒木が進路をふさいだ。これ以上はどうにも進めない。溜め息をつき四方をうかがうと、すでに夕闇一色、またたくうちに景色は落ち沈んでゆく。
「このうら寂しい山奥の、変哲もない土砂くずれの現場が、今朝から気にしていた局所そのもの? 」
辺りの深い茂みを見まわした。どうやら勘ちがいらしかった。もう降りたくなっていた。
濡れた土砂の中へ、足を突き刺し、よたついた。もどるより進むほうが、どうせなら元気が出る、と考えた。岩を踏んだ感触がしたので、足場にしようと重心をかけたらぼろりと折れた。もんどりうって、しりもちをついた。土へ差し込んだ手にまるこい石があたった。持ち上げたら、泥まみれの石ぼとけの頭が現れた。
わしづかみながら脇の平坦な地面へ降りた。
すぐに胴体の発掘作業にとりかかった。
落ちていた板切れをシャベルにして、あちこち掘ってみたが、容易には見つからなかった。ひょっとして首をへし折ったと感じたのは錯覚で、ちいさな仏頭だけがどこからか運ばれてきたのかもしれない。
懐中電灯で崖の上を照らす。樹木どもの奇態なおどりが、くっきり浮かび、揺らぐ。無数の樹影がのしかかる。
登る勇気はなかった。もいちど掘ってみようと板のシャベルをひろった。しかしどうしてこんな場所に、板切れが落ちていたのか。光を当てたらぎょっとなった。
『 ――れあ、ぶな、い 』
やはりおれは崩壊したのか。
おののき、それが静まったところで考えた。
「いや、あぶないどころか、助かったらしい。」
きのうと同じ崖くずれの現場へ、きょうも巡り着いてしまったのだ。
もどり道はすぐ上にある。光明の事実である。板切れをバッグにくくり、ほとけの頭は泥の中にうっちゃってきた。手さぐり足さぐりでで崖をよじのぼるのは予想外に難儀だった。もちろん真っ暗である。
現場は元のままだった。夜間そこを通行する車両などはかならず崖下へ転落するようにしかけられていた。私がきのうそうしたのである。ロープは飛び散り、板の標識は、二枚あったうちの一枚が道なりに五、六メートル下がったところへ倒れていた。あとは欠けらしかなかった。ほかのは下へ落ちたらしい。
暗いので手まどったけれども、どうにか人を死の入口数歩手前で立ち止まらせるくらいには復元できた。ひと息つき、このまま道を下りていこうと立ったとき、へんな形状の石を発見した。今そこへ尻をのせていた。石仏の横たわる胴体だった。
驚いたのもつかのま、ほどなく気分が高じ、喜悦した。ほらほら煩悩を解脱した、との無理な悟りをつくろった。なぜなら首をへし折ったのは、やっぱり自分だったからだ。
バイクで刎ね飛ばした石は――私のかわりに転げ落ちていった石は、哀れな御仏の頭であったのだ。
もう一度、崖を降りた。
路上まで登りきろうと、崖肌のしげみの途中でモゾモゾしていたところ、山奥には似つかわしくない、尾を引いた金切り音が聞こえてきた。頭上すぐ――穴のそば――まで接近すると静かになった。二輪車だった。
通せん坊をされた「彼」は、茫然と立ちすくんでいるのであろう。
「ゆうべと同じ目に会っていやがる。だがおまえは間一髪で死なずにすんだ」
笑い声をあげてしまいそうになったが、がまんした。バイクはすぐさま、さっき私が修復した現場をけちらし、引きずり、踏みつぶし、手かげんなく突破し、そのまま坂上へ去っていった。破壊音とともに板切れや砂利が頭に降ってきたので、体をそらしたら、落ちそうになった。
路面へ出てきて、動悸が静まると、虫の音がそこらじゅうに聞こえた。無残な現場を照らす。怒りは、ややあって静まった。再びきちんと修復する気力も体力も失せていた。
石仏の胴をかたわらの木にもたせ掛け、それへ頭をのせると、そこを離れた。明日また来ればいい、と考えてもいた。
うなだれ、とぼとぼ、ときには早足で、暗闇を降りて行く。充実した痛快な気分と、とげとげしい虚ろな気分が去来し、胸をかきまわした。今朝からのこだわりが今だどこかに引っかかっている感じだった。
すると後方から、バリバリいう不快音を吐き散らしながら、わが不安の犯人が坂を下りてきた。ふりかえらなかったが、排気音の悲鳴と貧弱な光線により、奴だとすぐにわかった。
たちまち私を追い越す。首を伸ばしてこちらをのぞき込んだので顔が見えたけれども、つよく憤怒をもよおした。何の特徴もない陳腐な容貌で、それも顔一面に、いや全身全霊、嘘くさい悲痛やら甘ったれた苦悩のメッキをぬりたくっているだけに、なおさら鼻についた。
少し先でくにゃくにゃと転倒しそうになっていた。
そのうち見えなくなったが、しばらくすると、かなり遠方より、オオイと聞こえた。それから何回も何回も、しつこく呼ぶのだ。
「石仏の首は、また泥の底へ落ちた」
気づいた。
「はね飛ばしやがった」
明日だ明日だ、と念じながら、急いで下って行く。予想より早く、旅館を通りすぎ、橋を渡ったらたちまち民家が多くなった。九時を過ぎていることもあって、深閑とした雰囲気である。
――が、まだ閉店していない店が一軒あった。
当たり前のような顔をして入っていった。すると、なんかほっとした。やはり店の女がこちらを向いて腰掛けていて、待ちあぐんでいたみたいな表情でもってむかえられたから。微笑はこう洩らした。
「どこへ行ってたの」
伝えるべきことが余りにも多い気がして、胸がつまった。こらえたとたん、凶暴な、野獣の咆哮に似た怒声がほとばしり出た。たじろぐと、こんどは嗚咽である。喉がひゅうひゅう鳴るばかりで、しゃべることはできなかった。たった一言を発するのでさえ、とんでもなく困難なことに思われた。号泣するしかないらしい。
「これは、誰がしかの鉄槌だ。しかし、おかしいぞ」
全身、だるくなった。もう眠りの中である。
「いつおれは眠ったのか」
とはっきり疑ったとき、目が覚めていた。右ひじと右膝の痛みとともに。