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ヒトラーのための聖火リレー

 1936年ベルリンオリンピックはナチスドイツを語る上では外せない、歴史的に非常に重要な大イベントでした。

 今回はドイツが主催国となったいきさつと聖火リレーについて、少しだけ紹介させていただきます。

 1931年、IOCは第11回オリンピックの開催地をベルリンに決定しました。ベルリンが選ばれた表向きの理由は、第一次世界大戦に敗れて孤立していたドイツに、国際社会への復帰のチャンスを与えるということだったのですが、実は多額の賠償金支払いを負わされたドイツに対し、戦勝国には罪悪感があったためとも言われています。有無を言わさずドイツに押し付けたヴェルサイユ条約があまりに無茶苦茶だったことを、さすがに戦勝国もわかっていたのです。

 当時のドイツは民主的なワイマール共和制でしたから、「いかなる差別も伴うことなく、スポーツを通して平和でよりよい世界をつくる」というオリンピック理念に即しているとみなされたわけです。しかし、まさかその二年後にナチス政権に移行し、独裁者ヒトラーがオリンピック開催を受け継ぐとはIOCも予想していませんでした。

 ヒトラーが政権を掌握する前年の1932年のナチス党機関紙には、「ネガー(黒人の蔑称)はオリンピックには出場させてはならない」と記載され、同年11月にナチスが第一党となった時から「公然と人種差別的発言を繰り返す主催国でのオリンピック開催は許されない」と外国から非難の声が高まっていきます。

 1933年、ヒトラーが首相に任命されてユダヤ人迫害が始まり、1935年にニュルンベルグ法が制定されてユダヤ人の公民権が剥奪されると、アメリカの呼びかけで、イギリス、フランス、オランダ、チェコスロバキア、スウェーデンなどがボイコットを検討し始めます。

 ヒトラーはこのオリンピックを通してアーリア人種の優越性、身体能力の高さを世界に示し、ナチスドイツのプロパガンダに利用しようとしていましたから、ボイコット国を出すわけにはいきません。

 アメリカから調査団が来ることとなり、ナチス政府は慌ててユダヤ人迫害を一時中止します。すべての公園入口の「犬とユダヤ人は立ち入り禁止」の立て札を抜き、ベンチに書かれた「ユダヤ人は座るべからず」の文字を消し、外国に亡命していたユダヤ人のスポーツ選手をドイツ選手として参加させるために呼び寄せました。調査団はユダヤ人迫害が行われていないことを確認し、安心して帰国したと言われていますが、実際はアメリカも黒人に対して差別的であったため、人種問題についてはそれほど真剣に調査はしていなかった、ナチス政府に歓待され買収されたという説もあります。

 こうしてボイコットされることもなく、予定通り49ヵ国がベルリンに集結することになりました。ちなみにアメリカ選手団が船でドイツに到着すると、外国から呼び寄せられていたユダヤ人選手たちはただちにドイツ選手団から追放されました。この時、政府に抗議したトレーナー はゲシュタポに逮捕されています。  

 さて、オリンピック開幕式の12日前に、聖火リレーが始まりました。この聖火リレーを考案した高名なスポーツ科学者、カール・ディームはオリンピック委員会のメンバーでしたが、頑としてナチス党党員になることを拒み続けたために体育大学副学長の職を失い、政府からは「政治的に信頼できない人物」のリストに入れられていました。彼が党員にならなかったのは、妻がユダヤ人であったためと言われています。

 ギリシャのオリンピアからベルリンまでの聖火リレーのルートは宣伝省の職員によって決定されたのですが、これは最も高低差が少ない最短距離であり、後の第二次世界大戦でドイツ軍が逆方向に侵攻するのに利用されました。

 3187㎞の距離を各国のランナーひとり1㎞、総勢3331名が走っていく様子はラジオで実況中継され、リスナーは異国の風景を想像しながら旅行でもしているような気分で楽しんだそうです。オリンピア、アテネ、ソフィア、ブダペスト、ウィーン、プラハを通過すると、やっと聖火はベルリンに到着します。オリンピック競技場に持ち込まれる前に宮殿前広場に設けられた「祭壇」に聖火トーチが運ばれると、鉤十字の旗を持った2万人のヒトラーユーゲントの若者たちと4万人のSA(ナチス突撃隊)メンバーが一糸乱れぬ完璧な行進を始めます。その光景は壮観で厳粛、世界中からやって来た観光客やジャーナリストを感激させました。セレモニー終盤になると聖火を持った最終ランナーは、いよいよオリンピック競技場に向かって走り始めます。こういった恭しい儀式で国民を魅了するのはナチスの得意技で、案の定、人々はヒステリックに泣き叫び、感動を隠しませんでした。

 こうしてオリンピック発祥の地オリンピアから運ばれた聖火は無事に総統が待つベルリン競技場へと運ばれ、「寛容なナチスドイツ」の祭典、ベルリンオリンピック開会式が始まったのです。


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