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郷土史勉強会にて・ドイツのクリスマス

ベルリン市内の私の住む地区では毎週月曜日に『郷土史勉強会』が開催され、高齢者の貴重な思い出話を聞くことが出来ます。今回のテーマは『私のクリスマス』。ドイツの伝統的なクリスマスの過ごし方は大変興味深く、キラキラ輝く宝石のような美しい話ばかりでした。

1. 女性F氏、1928年生まれ、ベルリン出身。

クリスマスと言えば、まず思い出すのが母の焼く最高に美味しいクリスマスクッキーだ。干し葡萄、アーモンド、シナモン、バターの香りが鼻腔をくすぐる。イブの朝、父は私たちが寝ている間に大きなモミの木をスタンドに立て、大小異なる大きさの輝くガラス玉と12本のクリップで留めた蝋燭に火を灯した。そしてラメッタ!ラメッタとは金色、銀色の細いすだれのような装飾で、ツリーの全ての枝に掛けられる。これが蝋燭の光を反射して月光を浴びたつららのようにキラキラと輝くのだ。ラメッタのないクリスマスツリーなんて当時は考えられなかった。イブの朝、私たち子供は身なりを整え、高鳴る胸を押さえつつ居間に入って行くと、そこには黄金に輝くツリーが待っている。そしてその下には綺麗に包まれたいくつものプレゼントが置かれているのを見逃さない。ああ、夜まで待てるかしら?午後には綺麗な外出着に着替え、家族で教会のクリスマス礼拝に参加する。自分達より少し大きい子供たちが演じるキリスト降誕劇が最高に楽しい。私も来年は動物の役で出られるだろうか。帰宅すると母のピアノ伴奏でクリスマスの歌をいくつもいくつも歌う。私たちは歌よりプレゼントが気になって仕方ない。クリスマスの歌の中には8番まであるものがあって、うんざりだ。誰がこんな長い詩を書いたのだろう?最後までやっと歌い終わると父が言う。「さあ、プレゼントを開けよう」私たちは飛び上がってツリーに駆け寄り、プレゼントを開ける。希望通りの時もあれば、予算が許さなかったのだろう、別のものの時もあった。可愛らしい人形やスケート靴をもらった時は飛び上がって喜んだものだ。イブの夕食は必ずソーセージとポテトサラダと質素だ。それは聖なる子を産んだマリアとヨセフの貧しさを思う夜だからだ。ガチョウかカモのグリルとクローセ(ジャガイモの団子)、赤キャベツの煮込みやインゲンのソテーと豪勢な夕食は翌日までの辛抱だ。でも私たち子供にとっては食事よりプレゼントの方がずっと大事だった。この晩だけは夜更かしが許され、私たちはテーブルを取り囲んでゲームをする。父がおどけて見せて私たちは大笑いする。母も涙を流して笑う。それが私のクリスマスだった。

2. 男性O氏、1930年生まれ、ベルリン出身

イブの日は朝からずっとソワソワしていた。7歳の私も妹も、今夜来るWeihnachtsmann(サンタクロース)のことで頭がいっぱいなのだ。父に預けた「鉄道模型をください」と書いた手紙は果たしてサンタに届いただろうか?夕方、父がパンを買いに出るとしばらくして玄関のベルが鳴る。母がドアを開けると「あらまあサンタさん、ようこそ」と言うではないか。来た!来た!私は妹と居間でじっと立ちつくす。やがてお面を被ったサンタがやって来て「いい子にしていたかね?」と問いかける。母さんの手伝いをするか?宿題は忘れないか?部屋は整頓されているか?私は深々と頷き、サンタに歌を聞かせながらあることに気がつく。このサンタは父と同じ靴を履いている。そういえば背格好も同じだし、同じポマードの香りだ。しかし私はそれを指摘出来なかった。サンタは私に小さなプレゼントを渡し、いなくなった。包みを開けるとそれは父の手作りの鉄道模型だった。私は金属製の精密なものが欲しかったのだが、我が家の経済事情では不可能だったのだろう。それでも器用な父は木片を削って切り貼りし、色を塗り、見事な電車を幾つも作り上げたのである。妹は人形用の手作りのベッド、洋服ダンス、椅子、一寸の狂いもない精密なデザインの家具をもらった。サンタに変装までして私たちを喜ばせようとした優しい父だった。夕食前に父はルカによる福音書2章を読み、皆でお馴染みの歌を何曲か歌い、ポテトサラダとソーセージを頬張る。私たちは貧しかったが、惨めだと思ったことは一度もなかった。

3. 女性L氏、1929年生まれ、ベルリン出身。

独ソ戦が始まると、私たちナチス女子同盟は戦地の兵隊さんのために手紙を書き、真綿入り上着を縫った。クリスマス前にはタバコの入った小包を幾つも作って東部戦線に送った。「そちらは寒いと聞きました。どうかお風邪など召しませぬよう、お国のために戦ってください」。ツリーは燃料になるため、飾ることは禁止され、クリスマスマーケットはすべて中止になった。兵隊さんの苦しみを忘れて楽しもうとする者は非国民だと同盟のリーダーに叱られた。クリスマスらしいものは何一つない。焼きリンゴも焼きアーモンドもカモ料理も。教会にさえもツリーは置かれなかったのだ。

4. 女性G氏、1944年生まれ、ベルリン出身。

教会のキリスト降誕劇は私はどうしても好きになれず、夏に配役が発表される時は「マリアにだけはなりませんように」と祈ったものだ。12、3歳の女の子がお腹にクッションを入れて妊婦を演じる屈辱を想像してみてほしい。しかも同年代の男の子が夫を演じるのだからこんな恐ろしい伝統はない。幸運なことに私はマリアを演じることは一度もなかったが。降誕劇の後、私たちは老人ホームをいくつも回ってクリスマスの歌を歌わなければならなかった。それも苦痛だった。早く帰りたい、プレゼントを開けたい、お腹も空いている。しかし、この伝統は頑なに両親が強制し、守られた。6歳から12歳までの聖歌隊の子供たちは『きよしこの夜』『Es ist ein Ros entsprungen』『O du fröhliche』『Alle Jahre wieder』などを歌うと、お年寄りは「ありがとう、ありがとう」と私たちの手をとって泣いた。戦地で手足を失った元兵士も何人もいた。ひとりぼっちで家族もなしで過ごすクリスマスはどんなにか寂しいことだろう。家に戻ると母はスープを温めて私たちをニコニコ待っていた。口に出して言うことはなかったが、やはり行ってよかったと毎年思った。温かいスープ、クリスマスの歌、お年寄りの涙。これが私のクリスマスだった。


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