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三人の物語 二人目 前田日向 会社員【コッシ―さまのための小説・連作短編】
親友に会うために、午後から有休をとった。会社を出て、待ち合わせのカフェに行く。道すがら、通りがかった公園の桜が、枝からこぼれるほどに花を咲かせ、風に揺れていた。もうすぐ、三月も終わりか、と呟き、陽光の中でぐうっと伸びをする。
カフェに、親友、越川和音を見つけ、走り寄った。私に気付くと、和音の肩で、真っすぐに伸びたきれいな髪がさらりと揺れた。和音のトレードマークの、凛とした笑顔が見える。
「和音、お疲れ!」
「おー! 日向もお疲れ!」
今日は、息子の叶芽くんの学校で、卒業式があると聞いていた。和音も、叶芽くんも、四月から、新たな道に進む。
「叶芽くんは? 家?」
「うん。一途と一緒にいる」
和音の夫の越川一途さんは、会社の介護事業部の責任者として、頼もしく働いている。和音をちらりと見る。表情は明るい。よかった、とほっとする。すると、私の心の内を見透かすように、和音はふっと微笑んだ。
「日向には、たくさん心配かけちゃったよね」
和音の前では、嘘をつけない。
「そうだよ~和音! 覚えてる? AO入試直前の焼き肉会」
「もちろん!」
去年の秋のことだった。美容専門学校のAO入試の直前、和音は私を焼き肉に誘った。今思い出しても、非常事態だった。いつも上を向いている和音が、下を向いたまま、じっと動かないなんて。
『和音、牛タン好きでしょ。食べな』
『日向、私ね』
『どした? 何でも言って?』
『私、美容師の資格とって、自分の店を持つのが夢なんだよね』
『そうだよね。専門学校のAO入試、もうすぐじゃなかった?』
『うん、出願したんだけどさ……』
そこまで聞いて、合点がいった。普段は、はっきりと物を言う和音が、言い淀んでいる。明確な答えが和音の中に無いのに、軽々しく背中なんて押せるわけがなかった。親友として、和音の悩みを静かに受け止めていたかった。和音の心の叫びを。その後、和音は私のマンションの部屋に来て、少しだけ泣いた。マシュマロを浮かべたココアを、何も言わず、二人で飲んだ。
『一途と、話し合ってみる』
帰り際、和音は、いつもの凛とした和音に戻っていた。秋風が吹く、涼しい夜だった。
季節は移ろい、今目の前にいる和音は、あの時の何倍も強くなった。カフェの窓に、自分の顔が映る。和音とは正反対の、少し傷んだショートヘアだ。和音に、いいヘアケア商品を紹介してもらおう。
「合格したって連絡来た時、泣いたわ~!」
「ありがとね、日向」
「私にならさ、好きなだけ心配かけていいんだよ? 和音」
「そうやって日向が甘やかすから。私、今泣きそうだもん」
「泣いちゃえよ~!」
おどけて、和音の手を掴んで、揺さぶった。今でさえ忙しい和音は、これからもっと忙しくなる。体だけは大事にしてほしい。私はただ、和音を、雨や風から、少しでも守ってあげたいのだ。いつもは強い彼女が、その重荷を、ほんのひと時でも下ろせるように。
和音と別れ、雑用を済ませると、夕方になっていた。夕飯の買い物にと、スーパーに立ち寄った時、野菜売り場で、一途さんを発見した。一途さんは、私に気付くと、にっこりと笑って、会釈をした。
「越川家、これから、忙しくなりますね」
「そうですね。俺の仕事は今まで通りなんですけど、和音も、叶芽も、新しい環境に飛び込むので」
一途さんは周りをきょろきょろと見渡すと、少し恥ずかしそうにあごの髭を撫でて、そっと告げた。
「俺、和音の夢は、自分の夢だって、思ってるんです。もちろん、大変なこともたくさんある。けど、二人でカバーできない分は、周りにいる優しい人たちに頼らせてもらおうって、決めたんです。とにかく、皆を巻き込んで、家族全員で、笑顔になれる道を選ぼう、って」
その輝く瞳を見て、私は少しだけ嫉妬した。雨の日には、傘を差しだし、風の日には、盾になって、和音を守っていたのは、私なんかではなく、一途さんだったのだと、思い至ったからだ。
家族って、いいなあ。
「私、越川家を全力で応援します! 私にできることがあったら、何でも言ってください!」
そう言って両手でガッツポーズをつくってみせると、一途さんは深々とお辞儀をした。顔を上げて、太陽のように微笑むと、一途さんは、手を振って、精肉売り場へと向かった。
その背中を見て、独りごちる。
和音。家族に内緒でまた泣きたくなったら、私がいるからね。
<三人目につづく>
◆あとがき 二人目
この連作短編に登場する人物やその名前は、樹による完全な創作です。
コッシ―さまから、テーマ「春からの新生活」というお題を頂きました。
奥様と、息子様が、春から新たな挑戦をされるとのことでした。
この企画【あなたのための短編小説、書きます。】コッシ―さまへの連続短編小説、第一作目は、こちらに記しております。
二つ目の作品は、越川家の奥様、和音さんの親友、前田日向の視点での小説となりました。
キャラクターは完全な創作ですが、想像したのは、言わずもがな、コッシ―さまのエッセイに記された、奥様です。樹の創作の中では、和音さんは強い反面、誰にも見せない繊細な一面を持ち合わせているという人物像となっております。
夫の一途さんときちんと話し合い、家族が笑顔になれる選択をした、和音さん。
泣き虫の私は、「和音の夢は、自分の夢」と書いていて、自分の文章なのに感涙しそうになり、天を仰ぎました。
コッシ―さまと奥様、息子様の関係性が、温かくて、あまりにも素晴らしくて。
家族って、いいなあ。
という日向の心の声は、もちろん、私の主観です。
コッシ―さま、人物描写がトンチンカンでないことを祈ります。
もしよろしければ、三人目の物語も、どうぞお読みくださいませ。
いままで書かせていただいた、「あなたのための短編小説」は、こちらです。