ナイトフライト【#紙飛行機芸術祭】
「Birds fly over the rainbow. Why then, oh, why can’t I?」
その歌声が聞こえた時、僕は両手に持ったホットミルクを床に投げ捨て、反射的に走り出していた。
「静!」
静は、ベランダにいた。ふらりと僕を振り返った静の大きな瞳は、やはり灰色で澄んでいて、こんな状況なのにうっとりと見惚れそうになる。
「先生」
なんでもないような声で、僕を茶化すように笑った静は、大きく息を吸った。
「Why do you stop me?」
混乱すると、静の言葉には、片言の英語が混じる。静は、記憶に残るぎりぎりの三歳まで、ニュージーランドに住んでいた。
「Nobody can save me」
「静。戻っておいで」
静は、物心ついた時から破綻していた。静の両親のことを聞けば、理由はすぐに分かる。両親は早々に静を手放した。それでも静は精一杯生きてきた。人を傷つけることもなく、懸命に心の中に棲む怪物を飼いならした。静は他の子供たちと同じように学校に通い、資格を取って就職した。
社会人としての今の静は、申し分ないほどの優等生だ。いつも穏やかで、仕事ぶりは丁寧、人当たりも良い。そんな「表」をきれいに磨けば磨くほど、静の「裏」に投影される影は、濃さを増していった。静には、影を解き放つための暗闇が必要だった。それが、僕だ。
「静。お願いだから」
僕たちが暮らすのは、マンションの七階。全て、この物件を選んだ僕の責任だ。静につられて、僕も夜空を見上げた。空には数え切れないほどの星が瞬いている。月のない夜だ。疲弊した心が、夜気に冷やされる。
「先生」
静の声が、少女のように弾んだ。
「私のこと好き?」
この質問が出れば、まず大丈夫だ。いつものようにほっと胸をなでおろす。
「ああ。大好きだよ。静がこの世で一番大好きだ」
心からの、真実の言葉だ。
「じゃあ、論文読んで」
「どの論文にしようか」
「決まってるでしょう。私のお気に入りのやつ。先生があの時書いた論文だよ」
僕は、僕が大学で助教の地位を得るきっかけとなった論文を諳んじた。静は、嬉しそうな顔をして笑った。
あの時、静が、同僚の不正と僕の潔白を教授に報告していなければ、僕は同僚の道連れとなり、研究の世界を追われることになっていただろう。
論文を諳んじていて、頭の奥底から、熱いものがこみあげてくる。僕たちは、この上ないほどにこじれている。僕が彼女で、彼女が僕で、僕達はもう、きれいに二人に切り離すことができないほど、癒着してしまった。
静が、首を傾げて、僕の涙に気付いた。
「先生。どうしたの? また誰かにいじめられた? 大丈夫。私は、ずっとずっとそばにいてあげるから」
静が、僕の方へ手を伸ばす。僕はその手をしっかりと握りしめた。
今夜も、僕たちは生きていく。
毎日が本当に大変だけれど、不器用で破綻している僕達の前には、そうして一日を一歩ずつ生きていくほかに、道がない。
静は、泣きじゃくる僕の頭を温かい腕で抱いて、僕の髪を撫でる。
「よし、よし。先生はいい子だよ」
静は、医学部を卒業後、今は大学病院で小児精神科医をしている。毎日、沢山の子供たちと一緒に、悩み、苦しみ、這うように生きている。昔、誰にも助けてもらえなかった自分自身を癒すように、子供たちと向き合い続けている。
「私が医者だなんて、やっぱり狂ってるのかな」
「そんなことあるわけないよ」
静の細い腕をぎゅっと掴む。静の体から、力が抜けた。
「もう大丈夫。いつもありがとね、先生」
静の声が穏やかになる。ああ、よかった。僕の脈拍が、落ち着いていく。
「ちょっと待ってて」
静が、部屋の中に入り、クローゼットから古い大きな封筒を取り出してきた。中には、染み一つない画用紙が入っていた。僕は、静が何をしようとしているのか、じっと見守ることにした。静は、あまり器用な方ではない。必死に顔を歪め、画用紙を折り進めていく。出来上がったそれを見て、僕はふっと笑みを浮かべた。
「紙飛行機?」
静は嬉しそうに微笑むと、紙飛行機を右手に持って、目を閉じた。
「実は今日、この紙に描いたものとお別れをするって、決めていたの」
僕は、静の言葉を待っていた。
「母の日に描いたお母さんの絵」
僕は知っている。静が子供の時、毎年母の日に、母親の笑顔を描いて郵便で送っていたことを。水色やピンクの、鮮やかな色彩で描かれたその似顔絵が、いつもポストに戻ってきたことを。
静は、深く息を吸うと、紙飛行機を夜空に放った。紙飛行機は、秋の澄んだ夜気の中を、ゆっくりと滑空し、森の中に消えた。
「私の本当のお母さんになれるのは、私だけだから」
静の頬に一筋、涙が光る。
僕は、静の両手を包んだ。僕には、静の傍にいることしかできない。静と共に、曲がりくねった暗い道を歩むことしかできない。なんてもどかしいのだろう。
静は、声もなく泣いていた。
紙飛行機は、夜に消えた。
この涙は、静が門出を迎えたことの、確かな証だ。
<了>
タイトル:ナイトフライト
著:樹立夏
使用フォント
記事見出し画像:UDモトヤマルベリ
折本表紙:UD デジタル 教科書体 NK-R
折本本文:UD デジタル 教科書体 NK-R
印刷しての最小フォントサイズ:10.5pt
記事内本文の字数:2,019字
紙飛行機(2枚分)
☆すーこさんのこちらの企画に参加させて頂きました☆
【あとがき】
すーこさん、紙飛行機芸術祭、参加させて頂きます! もしかしたら間に合わないかもしれないと思い、コメント等差し控えていたのですが、間に合いました! 折本の画像がなぜか小さくなってしまいました。すみません💦
重い作品となりました。この小説を投稿していいものかと、何度も自問しました。けれど、紙飛行機というツールを与えて頂き、「過去を手放す」という着想を得て、どうしても書きたい思いが溢れたため、投稿に至りました。
実は折り紙は苦手なのですが、紙飛行機、折本製作、作っていてワクワクしました。
紙飛行機芸術祭、楽しませて頂きました。
芸術の秋に、素敵な発表の場を頂き、本当にありがとうございました。