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【鬼の産声】#白4企画応募
「お前に俺が殺せるのか?」
森の底に、二人きりだ。互いの呼吸の音が聞こえる。抵抗もせず、目の前で仰向けに倒れた鬼に、覆いかぶさる。喉に刃を突き立てた。間もなく臨終を迎えるというのに、鬼は楽しそうに、屈託なくからからと笑った。ひとしきり笑うと、鬼は、水底にうずくまる小さな魚を探すような目で、僕を見つめた。
苔むした林床をちらと見た。どこまでも深いこの森は、僕たち人間を飲み込み、鎮まりたがっている。大の男が二人、三人、手を繋げばやっと抱えられるほどの、太い幹を持つ巨樹たちの森だ。分厚くひび割れた樹皮の上に広がる絨毯は、灰色がかった緑色をした地衣類だ。
樹々は、天に向かって、撓み、曲がりながら、精一杯に枝を広げている。時折、小さな獣が枝から枝へ飛び移り、ばさりと音を立てる。枝に遮られることを免れた、天からの光の筋が、あちらこちらで、空気中の微細な水蒸気の粒子を、きらきらと輝かせている。
嗅いだことがない位の、濃い緑の匂いに、むせかえりそうになる。
木の葉が、はらりと一枚散った。まだ青かった。
奥歯をきつく噛んだ。ぎり、と鳴る。
首の皮膚にめり込んだ刃の切っ先を見つめる。鬼は、まるで動揺もせずに、笑みを浮かべた。
「もう一度訊く。お前に、俺が殺せるのか?」
どうして、僕は鬼を殺そうとしている?
鬼と呼ばれるこの青年は、かつて、僕のかけがえのない友ではなかったか?
——僕は、いつ、何を間違えた?
突如、呼吸が苦しくなった。ぜえぜえと息を吸えば吸うほど、酸素が回らない。記憶の暗い沼の中から、何本もの腕がぬるりと這い出て、僕の足を掴み、沼の底へと、引きずり込んでいく。
世界が、暗転した。
重い瞼を開くと、僕は夏の野原に寝転んでいた。金色の午後の日差しが、僕の心を漂白していく。吹き渡る風は、陽だまりの匂いを孕んでいる。洗いざらした生成りの麻の着物が、風を含んで心地良い。呼吸はずいぶん楽になった。大きく息を吸い込む。
ふと、両手を見た。自分が子供の姿になっていることに気付く。
これは夢だ。
僕は、僕の過去をもう一度なぞっているのだ。
「なあ」
隣から、懐かしい声がする。呼ぶ声の方に頭を回すと、藍色の着物を纏った鬼がいた。
いや、後に鬼と呼ばれることになる、この時の僕と同じ十二歳の、翡翠という名の少年が。
「なあ。名を付けてやろうか」
「名?」
「嫌いなんだろ? 『桃太郎』って名が」
ああ。そうだった。僕は桃から生まれた桃太郎なのだった。桃から生まれたなんて、ありえない。だからつまり、僕はただの人間だ。
「そうだね。嫌いだよ。この名がね」
「じゃあさっさと捨てちまうんだな。そんなもん」
「でも……」
「でも? まさか、お前を拾った爺さんと婆さんに悪いとでも思っているのか?」
僕は、頷くと、仰向けになって、陽の光の中で目を閉じた。日差しが、瞼に温かい。
翡翠も、僕と同じように体を仰向けにして、太陽を仰ぐ。
「そんなら、名を使い分けたらいい。自分ってのは、角度によって見え方が変わる宝石のようなものさ。爺さんと婆さんには見せない自分に、名を付けるんだ」
翡翠が僕を見た。名前の通りの翡翠色の瞳が、鋭く光っている。一つに結んだ翡翠の銀色の髪の毛が、野を吹き渡る風にさらさらとなびく。そう言えば、僕の髪は漆黒で、目の色は、黒みがかった金色だったっけ。
「名、つけてよ。僕に」
翡翠はにっと笑うと、嬉しそうに目を輝かせ、「うーん」と楽しそうに唸り、目を閉じた。
夏の野を、風が吹き渡り、しなった草花たちが香る。
「黒に陽と書いて、黒陽ってのはどうだい」
「黒陽?」
「初めて見た日食の黒い太陽が、なんだかお前の目の色に似てる気がしてさ」
「ふーん」
僕は少し照れて、また目を閉じた。
「また殴られたのか?」
ぎくりとして、目を開ける。
「腕に痣」
翡翠を見た。悲しそうな目をしている。
「俺には、嘘をつかないでくれ」
そうだ。僕はこの頃、老夫婦に日常的に殴られていたのだ。少しの沈黙の後で、僕は、爺さんと婆さんからされたことを、翡翠に告白した。翡翠の瞳の色が、怒りのせいで急に濃くなった。
「俺は、この国を出る」
驚いて、翡翠を見た。
「傷つける者も傷つく者も、搾取する者もされる者もない、平和な国を作るんだ」
翡翠は、僕の方に頭を回すと、僕の目を真っ直ぐに見た。
「黒陽。俺と一緒に、この国を出ないか?」
僕は、不確かな未来が怖くて、首を横に振った。遠くで輝く希望よりも、すぐ傍にある慣れ切った絶望の澱みを、無意識に選び取っていた。幸せを掴もうとすると、足が竦む。どうせ幸せは儚く、またすぐに奈落の底に落とされるのだから。
翡翠は、寂しそうに笑っていた。
その日を境に、僕達は、口を利かなくなった。
それから三年後の、月のない夏の夜に、翡翠はひとり、国を出た。
無断で国を出た者は、鬼と呼ばれ、死罪となる。
翡翠が鬼となったそのすぐ後で、十五歳になったばかりの僕に、鬼を討伐する命が下った。
あの時、翡翠と一緒に国を出ていたら、何かが変わっていたのだろうか。
朦朧とする頭の中を、途切れなく記憶が流れていく。
鬼を駆逐せよと、尊い使命を果たして来いと、老夫婦は、村人たちの真ん中で、張り付いた笑みを浮かべ、旗を振っていた。婆さんは僕にきび団子を持たせたが、食べたいとはどうしても思えなかった。だから、道中、見世物小屋で、飢えて死にそうになっていた動物たちに、持っていた団子をすべて与えた。動物たちは、僕を命の恩人として、慕ってついて来てくれた。けれど、心の奥底で僕が本当に欲していたものは、主従関係ではなく、深い友情だった。
村を出てから、一年が経った。僕の体は成長を続け、背は伸び、腕も足もずいぶん強くなった。何か月も舟を漕いで辿り着いた鬼ヶ島は、緑に覆われた、静かで小さな島だった。村人たちが噂していた恐ろしい場所とは正反対の、平和な島だ。この島でなら、動物たちは、食べ物を見つけて自力で生きていけるだろう。僕は、森の入口で、動物たちを解き放った。
夢が終わっていく。記憶の沼の水面へと、浮上していく。
ゆっくりと視界が明るさを取り戻す。
僕は、深い森の苔むした地面の上に、仰向けになっていた。
「なあ」
懐かしい声がする。
「俺を殺せと、村長にでも言われたんだろ」
ふと気配に気づく。僕と鬼が寝転んでいる周囲の樹々の枝に、潜んでいる者がいる。その数、少なくとも三人。射手たちが、僕に向かって弓矢を構えている。
「安心しろ。俺が合図をしない限り、矢を放つことはない」
気づかなかった。僕は最初から包囲されていた。
「此処には村長が言うような財宝はない。何が望みだ。俺の首か?」
鬼の声は、恐ろしいほどに穏やかだ。
僕は、暫し沈黙した。古い森の木々を仰ぎ見る。この森の空気は、滋養のある透明な液体のようだ。体全体で、浸る。
「気持ちのいい所だね」
鬼は、少し驚いたように目を開いた。
「この島のことを教えてよ」
天から降りてくる光の筋の中を、黒や、瑠璃色をした、大きな蝶たちが飛び交っている。光に透けるほど薄い翅が、繊細な螺鈿細工のように輝く。
隣で、鬼が息を吸った。
「傷つける者も傷つけられる者も、搾取する者も搾取される者もない、理想郷を作りたかったんだ」
「ああ、覚えているよ」
鬼は、国を出てこの島に辿り着く途中で、人買いに捕まった孤児たちと、虐待されていた家畜を拾った。彼らと共に辿り着いたこの島で、鬼は畑を耕し、家畜を育てた。流した汗の分だけ、畑は肥えた。家畜たちの目は日に日に穏やかになり、やがて子を産み育んだ。
「僕を射殺してよ」
「何だって?」
「もう、疲れたんだ」
僕は、両手両足をめいっぱい広げた。森の樹々の前では、不思議と隠し事ができない。森は、全てを知っている。
「ずっと、君が羨ましかった」
胸の上で両手を組む。掌ほどの大きさの、瑠璃色の蝶が一匹、僕の手の甲に止まった。重さなんてまるでない、この世の細工ではないような蝶だ。ゆったりと、僕の手の上で、翅を開いたり、閉じたりしている。呼吸が一重、深くなる。
「僕の人生は、空っぽだよ。爺さんと婆さんは、川に捨てられた僕を拾ってくれたけれど、その後されたことを考えると、決して感謝なんてできない」
村にいた時、いつも、「感謝しろ」と言われてきた。そうしていつしか、腹話術の人形のように、「感謝」という言葉を繰り返していた。村を離れた今、どういうわけか、「感謝」という言葉が、これまでの人生には全く似合わないことが解った。
鬼が、僕の方を向いた。やはり悲しそうな顔をする。
「君は、全てを自分で決めてきた。国を出たこともそう。けれど、僕は」
僕は、何も決めていない。選ばされたことを、自分で決めたことと思い込んで、ただ人形としての人生を生きて来ただけだ。
「僕の人生は、だれのものなんだ?」
呻くように、声を絞り出した。
「黒陽」
懐かしさに、心の臓が、どくん、と脈打った。
「お前の人生は、お前だけのものだ」
開いた瞳から、樹液よりも重い涙が、はらはらとあふれて落ちる。呼吸が、嗚咽に変わった。森が、僕の泣き声を飲み込み、静寂に変えてゆく。
「俺たちと一緒に、この島で生きないか?」
長い沈黙を破ったのは、僕の手から飛び立った蝶の羽ばたきがもたらした、わずかな気流の乱れだった。
「翡翠。それはできないよ」
「どうして」
「僕が戻らなければ、村人はきっと、僕が鬼に殺されたと思うだろう。そうしたら、次は大人数で、必ずこの島を攻め落としに来る」
翡翠が、静かに息を飲んだ。
「僕は、この島を壊したくない。この平和を壊すことは、誰にも許されない」
涙を拭って笑った。心が澄んでいく。
僕にできることが、やっと見つかったからだ。
「帰るよ。国に」
立ち上がり、森の天井を仰いだ。射手たちが、ゆっくりと弓を下げる。僕は、鬼を退治した証拠にするために、髪を一束くれるよう、翡翠に頼んだ。翡翠は、一つに結んだ美しい銀色の髪を根元から切り落とし、僕に渡してくれた。
森の入口まで戻ると、解き放ったはずの動物たちが、僕を待っていてくれた。犬も、猿も、雉も。
動物たちと一緒に舟に乗り、元来た方角へと漕ぎだす。腕に力が漲る。振り返ると、岬で、翡翠が旗を振っていた。これが最後だ。もうここに来ることはない。泣いているはずの翡翠の旗が、だんだんと遠くなって、ついには見えなくなった。
国に帰った僕は、もう、迷わなかった。銀色の髪を見せると、村人たちは、僕が鬼を退治したと信じ込み、狂喜した。鬼退治の功績として、僕だけの大きな屋敷が与えられた。僕を虐待した老夫婦とは別の住まいを得たことで、ぐらついていた心も安定した。僕の使命は、ただ一つ。翡翠が暮らすあの平和な島を、守り抜くことだ。
国に凱旋して三月が経った。夏の終りの、月がない暑い夜に、僕は誰にも言わずに国を出た。
僕は死罪となり、追手がかかるだろう。
それでいい。好きなだけ僕を憎めばいい。
僕に注目が集まる代わりに、翡翠の島が、皆の記憶から消えてなくなれば、それでいい。
天の星々は、はるか遠くで命を燃やし、金や銀の色に明滅している。
夜空を仰いだ僕は、人に気付かれぬよう声を殺し、心の底から笑った。
夜に飲み込まれていく掠れた笑い声は、鬼となった僕の産声だ。
僕は、こうして鬼となった。
<終>
♢あとがき
この度、白鉛筆さんの「白4企画」に参加させて頂きました。
桃太郎の筋書きに沿って、自分ならではの物語を展開する企画です。
八月二十四日に一斉に投稿するというこの企画。
これを書いている今は発表日の前夜です。
よかった。間に合いました。
明日はどんな作品が出そろうのか、ワクワクドキドキハラハラしています。
今回私が書いた桃太郎は、鬼ヶ島で桃太郎が鬼と対峙する場面から始まります。鬼が、実は桃太郎の親友だったという設定です。
鬼ヶ島は、国を飛び出し死罪となった鬼がずっと求めていた、ユートピアとして描写しました。
書く前に、考えてみました。
鬼って何だろう。
鬼って、「誰にとっての」鬼なんだろう。
鬼って、イコール「悪」なのかな?
自分で見てきたわけでもないのに、鬼ヶ島が恐ろしい所だなんて、どうしてわかるの?
誰の視点に立つかで、「鬼」の解釈はずいぶん変わります。
ラスト、黒陽こと桃太郎は無断で国を出て、死罪となり、鬼になります。
桃太郎という枷が外れ、誰のためでもない自分を発見した桃太郎は、もう一度鬼として産声を上げるのでした。
鬼ヶ島の舞台とした森は、絶対に行きたいと思っている屋久島をイメージして書きました。
白鉛筆さん、note4周年、おめでとうございます!
白4企画、とても、とても楽しく書けました!
素晴らしい企画をありがとうございました!!