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ゲシュタルト崩壊、空の底

 十二月一日。カレンダーの文字をなぞる。
 + = 月 - 日。
 この数式を完成させるには、何を補えばいいのだろう。
 今日は、十二月一日だから、右辺の「月-日」は、
 十二 マイナス 一で十一?
 そうなると、式の左辺は、足して十一になる組み合わせだから、
 一、十
 二、九
 三、八、
 四、七、
 五、六
 逆の組み合わせも成り立つから……。

 ”Come on, Rin. Can't be late.”

 慌てて顔を上げ、ママの背中を追いかける。ママの髪は赤茶色で、きれいに編み込んで纏めてあって、黒いウールのコートによく映える。低いヒールの、やっぱり黒い靴の、コツコツという音に追いつくよう、走る。
 
 凛。リン。Rin. 私の名前はどれ?
 
 私は、一か月後に、アメリカに行く。
 アメリカのママの家族の家で暮らす。
 今日、「それ」を「見届けた」後で。

 どうしよう。私、英語が分からない。
 
 バスを降り、火葬場に着いた。
 十二月の曇った空を見放し、落ちた雨滴が、顔をこそばゆく濡らす。
 空が、パパのために泣いているのだ。

 最後のお別れの時、ママは泣かなかった。
 私は、泣けなかった。

 これは、本当の世界?
 私は、まだ十一歳なのに?

 ふらふらと火葬場の外へ出る。傘を持ってくるのを忘れた。
 そんなの、どうでもいいことだ。
 水たまりの中に、黒い靴でぱしゃんと立つ。
 空が、足元に映っていた。

 どぷん。

 音がして、落ちていった。
 水鏡の世界へ。
 地面が上で、空が下の、逆さまの世界へ。
 
 どぷん、どぷん。

 空の底へと、落ちていく。
 落ちれば落ちるほど、空は、広く、深く澄んでいく。
 顔を上げると、地面がもう、あんなに高くにある。

 ママ、心配しているかな。
 たぶん、してないな。
 
 スピードが上がる。 
 
 魚たちの群れを見つけた。 
 空を泳ぐ、小さな銀色の魚たち。
 きらっ、きらっ、と、小さな目が私を捉える。
 私を見つけて、魚たちの群れは、さっと私をかわす。逆さまの虹のアーチを銀色の体に映し、さっ、さっと、群れの形を変える。

 この空の底に、パパがいるのかな。
 なら、怖くない。どこまで落ちていっても、私は怖くない。

 空の色が、濃く、深い青に変わっていく。

『凛』

 パパは、漢字の発音で私を呼んだ。

『凛に出会えただけで、パパは神様よりも幸せなんだ』

 パパ。

 流した涙の、大きいのが、小さいのが、みんな、まあるいビー玉にみたいな形になって、吹き上げられていく。

 パパ。

 私、アメリカには行きたくない。
 ママに言ったら、また怒るかな。
 ねえ、パパ。

『パパ、私の夢、当ててみて!』
 
 お決まりの質問をすると、ベッドの上のパパはいつも、大きな丸眼鏡の奥の優しい目を細めた。

『凛は、本を読むのが大好きだからなあ。作家さんかな?』
『大正解!』
『じゃあ、頑張って生きなくちゃ』

 じゃあ、がんばって、生きなくちゃ?
 がんばって、生きなくちゃ?
 生きなくちゃ?

「パパ!」
「パパあ!!!」

 喉が裂けるほど叫んでも、パパはもう、どこにもいない。

「『パパはお空にいる』なんて、生きている人を慰めるための嘘なんだ!」「嘘つき!」
「嘘つきいいい!!!」

 落ちるスピードが上がる。
 ああ、私は「死」へと向かっているのだ。
 今、はっきりとわかる。

 さあ、パパのところへ。






『凛は、作家さんになりたいんでしょう?』

 





 パパの声がして、はっと涙が止まる。

『凛、知ってる? 作家さんはね、生きている悲しみや苦しみを全部、魔法の言葉に変えて、泣いている人の荷物を、軽くすることができるんだよ』

「パパ?」

 紺碧の空で、辺りを見渡す。

『生きている全部が、魔法の言葉になるんだ』

「パパあ!」

 どこ? パパの姿は見えない。

『だから凛、生きなくちゃ』



 

 
 そうだ。姿は見えなくても、パパはいつもここに。




 ぶわっと、重力の向きが逆になる。
 空の水面に向けて、浮上していく。
 ああ、なんて心地よい。




 ”Rin!! Come back, Rin!!”


 

 
 徐々に視界が光を取り戻す。

「外で、滑って転んで、頭を打ったらしいわよ」
「辛かったんでしょうねえ、凛ちゃん」

 親戚のおばさんたちの、ひそひそ声が聞こえる。

 頬が、濡れて温かい。
 ママの涙と、少しかさかさした手だ。

 泣きじゃくるママの膝の上で目覚めた時、私の心は決まっていた。
 どこに行ったって、私は物語を書ける。
 私が、私を見放さない限り。


 

 私は、「凛」。



<了>

#シロクマ文芸部

幽霊部員でしたが、久々に作品を投稿させて頂きます。
小牧幸助部長、幽霊部員、1800文字書きました!

お読みいただき、誠にありがとうございました。




 

 

 

 


 



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