仕返しはnoteいっぱいの夢物語で #創作大賞2024 エッセイ部門
「立夏ちゃんは贅沢なんだよ!」
ずっとずっと前のことだ。将来の夢を語っていると、友人が突然大きな声を出して、私を睨んだ。
二十年近く前に放たれた言葉だ。今でも私の心に刻まれている。ガリガリと私の心を削ってできた刻印は、今でも時々疼いて、私を苛立たせる。
「贅沢で何が悪い。私の人生は私のものだ」と言ってしまえたらよかったのだが、当時の私は、攻撃への対処方法を何も知らなかった。脆かった。
「贅沢なんだよ!」が、私の核となる部分に刺さってしまった。すぐに引っこ抜くことができなくて、ずいぶん悶え苦しんだ。この言葉は、今も私の核に刺さったままだ。
この言葉の主とは今も付き合いがあるが、二人で一緒にいると辛くなる。
成人したら、自分の人生を自分のために使うと決めていた。それまでの枷を全て外して、一生分の情熱を注げる仕事を探していた。当時の私にとって、それは科学研究だった。
「世界とは何か」という疑問を抱いた。それを、科学の手法で突き詰めようと思った。
将来的には奨学金を当てて留学して、学者になりたい。そのために英語の勉強も頑張りたい。なにより毎日の講義が楽しい。英語の教科書を有志で読み解く「輪読会」も始めてよかった。
私の話を遮って、彼女が声を荒げた。
「立夏ちゃんは贅沢なんだよ!」
「現実を見ろ、愚か者が」と言われた気分だった。高望みをするな。望むことの全てが叶うと思うな。「皆」自分の何かを犠牲にして、社会と折り合いをつけて生きてくのだと。「枠」の中に収まらないと、生きていくことはできないのだと。
その言葉が、人生の節目で私を蝕んだことは確かだ。けれど、傷ついただけではない。その言葉をぶつけられてから、長い時間をかけて、転んだ私は起き上がり、私自身を育ててきた。
私の生き方を「贅沢だ」と批判する権利は、他人にはない。人生に何を求めるか、どう生きるかを決められるのは、私だけである。
視点を変えてみる。私は、贅沢だと思われていたのだ。つまり、私の夢にはそれだけ魅力があったということではないか! そう考えてみると、気分が悪いわけでもない。
誰かが贅沢に生きているとして、それの何が悪いのだろう。どうせ生きるのなら、贅沢三昧の人生を送りたいではないか。あれもこれもやりたい。
私が求める「贅沢」とは、多額の金銭を投入してモノやコトを、思いのまま、好き放題に得ることとは違う。「自分の心を喜ばせて生きること」という言葉が近いように思う。
別の友人に、おそるおそる、小説やエッセイを書いていると打ち明けた。小説をコンテストに応募していることも伝えた。
一秒後。
「いいじゃん!」
「へえ……」という微妙な反応を予想していた私の不安は、いともあっけなく打ち砕かれた。
大切にすべきは、この人物だろう。「贅沢なんだよ!」と圧をかけてきた彼女ではなく。
結局、科学の道には残れなかった。挫折した当初は、「贅沢なんだよ!」の彼女が、「ほらね」と、私を論破する時の顔が、よく目に浮かんだ。
けれど今は、文章を書くことがとても楽しい。真っ白な画面に向き合って、一文字一文字を刻んでいく過程は、贅沢以外の何物でもない。noteを始めたことがきっかけで、素晴らしいご縁を頂くこともできた。読むこと、書くこと、つながること。これって、ものすごく贅沢なことだと思う。
さて、二十年越しに、彼女の、「立夏ちゃんは贅沢なんだよ!」に言葉を返そう。
「今、贅沢に生きられていて、私はとても幸せなんだ」
やり返すことって、攻撃に攻撃で返したり、無視をしたりすることだけじゃないんだなと気づいた。私が幸せになることで、少しでも相手が怯んだなら、仕返しは大成功なのだ。