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白が聴こえる #紅白記事合戦2024

大事な秘密をひとつ、明かそうと思う。
四半世紀の間、私のタブーであり続けたことを。

今は亡き、大好きな坂本龍一さんのピアノが、ここ最近ずっと、頭の中で鳴り響いている。

Merry Christmas Mr. Lawrence 
邦題:戦場のメリークリスマス

この曲は、「白い」。

疑問に思われた方が、ほとんどだろう。
当然だ。

まずは、説明させてほしい。

私は、音を聴いて、音以外にも、色彩やテクスチャーを知覚する。
この感覚は、「共感覚」の「色聴しきちょう」に分類されるらしい。

共感覚とは、一つの刺激から、通常の感覚だけではなく、異なる種類の感覚が生じる現象である。

私の色聴を例に挙げよう。

通常、大部分の人は、鼓膜が特定の範囲の周波数で震えた時、音を感じる。通常の感覚だ。しかし私は、音を聴いて、色やテクスチャーといった、音以外の要素も同時に感じる。これが共感覚である。

「黄色い声」という表現があるが、まさにその通りで、紺色の音、黄色の音、赤色の音というものが、私の中には存在する。

今はもう感じないが、五歳くらいの時には、「さみしい」という言葉を発すると、セロリの味がした。

音に色を感じるとはいえ、音が鳴った時、視野に赤や白の色がついて見えるわけではない。「連想する」や、「思い浮かぶ」、「イメージする」とも違う。

音を聞くと、瞬時に音の色が分かり、「見え」るのだ。
同じ音は、同じ色。ドは紺色。レは赤色。ラは黄色。
単音が旋律になると、色が変わる。音のかたまりとして認識するからだ。

楽器の声には固有のテクスチャーがある。
ピアノの声は、澄んだ水の滴、チェロの声は、とろりとした粘性の高い液体に聴こえる。

私が持つ共感覚が一般的ではないと知った時は、とても驚いた。

昔、ピアノのレッスンの時に、よく先生と音楽談義をしていた。小学校高学年の頃のある日、話題は、チャイコフスキー作曲「くるみ割り人形」の、「花のワルツ」になった。

中盤(動画の4:05のあたり)で、チェロとヴィオラが主旋律を奏でる。私はこの部分を、「ばら色の、ステンドグラスのように光る音」と表した。

ピアノの先生には、「音をイメージできるのは良いわね」と、褒められた。先生は、私の色を、あくまでも「想像力」として理解していた。
小学生の頃は、ピアノの先生以外の人と、音楽について語った記憶がない。

中学に入った頃だったと思う。
容赦なく現実を突き付けられた。

放課後の音楽室で、友人たちとピアノを弾き合った時。
「ここってばら色だよね。赤紫っていうか」
私がうっとりとして言うと、会話が止まった。
「……なに? それ」
「音の色だよ。暗譜するとき、色で覚えないの?」
「色で覚えるって、何?」
ここまできて、ようやく気付いた。
友人たちは、私のように音を色で聴いていないのだ!

色が見えない音って、どんなだろう。
全く想像がつかない。今でもだ。

私は、どうやら少数派らしい。
当時、女子のカーストの怖さはよく知っていた。
「変」な人間だと、踏みにじられる存在になりたくはなかった。
だからその出来事以来、共感覚について語ることを避けてきた。

音の色は、私だけの色だ。
音楽を聴くとき、昔も今も、頭の中では常に色が弾けている。

「戦場のメリークリスマス」を聴き、圧倒的な、水のような、水蒸気のような、不思議なテクスチャーの、白の世界を知覚した。

私の「戦場のメリークリスマス」は、誰に何と言われようと、どうしようもなく、白だ。

「未踏破の、流動的で、波のような森のような、まっさらな白の世界」なのだ。

白の世界で、瞳を閉じる。
坂本龍一さんの音に、全身で浸る。

この曲を、私の色とテクスチャーで表現してみよう。

降るのは雪のような、しかし雪ではない流体。
ダイヤモンドのようなきらめきを放つ雫。
誰も踏み入ったことのない白い森で、白樺の木々が、霧の中で揺れている。

優しく、穏やかに寄せては返す、あたたかな白い波たちが、心地よく体を揺さぶる。

それでも眠りから醒めたくはなかった。
あなたがいないこの真っ白な世界を、認めたくはなかった。

森の中で、あなたの残像が、白銀色の氷の中に閉じ込められていることに気付く。

走っても、走っても、追いつけないような追憶の果てを目指して、逆行する時間。時間の行き止まりで、思い出は、涙の結晶に変わる。

ひとひらに、またべつのひとひらに。
一つとして同じ形がない、融けて消えればもう二度と戻らない雪のフラクタルに、白の、永遠の命の輝きが宿る。

上記は、音楽を文字に変換した結果であり、小説ではありません

これが、共感覚者の私に見えている世界だ。

色がテーマのこのエッセイに、何を持ってくるか、ずいぶんと迷った。
自分でもとても不思議なのだが、長い間、私のタブーであり続けている共感覚について、書いてみようと思った。

noteを書くことで、私の共感覚は個性なのだと、認めることができたからだ。とても時間がかかった。今に至るまで辿ってきた道は、一直線ではなかった。

冒険者クリエイターたちが、noteの海を渡っていく様子をぼんやりと眺めていた時だ。
羅針盤が指す方角は、人によって違うと気が付いた。

冒険者クリエイター達は、順境にあっても、逆境に苦しんでいても、皆、懸命にそれぞれの生に向き合っている。彼らが、自分に対して自分を偽っていないことが解った時、すうっと力が抜け、「私は私でいいんだ」と思えた。

あなたが見る世界と、私が見る世界は、きっと違う。私が見る世界は、「普通」からは離れているのだろう。

さて。

あなたにとって私は、「変」?「おかしい」?

ここまで読んでくれてありがとう。
悲しいけれど、そう思われたなら、私はそれでも構わない。

ただし、これだけは言わせてほしい。

人の脳は、工場で判を押すように、一様に作られているわけではない。
脳にもともと個性があるのだから、情報処理の結果生じる感覚が多様であることは当然だ。「違い」は、必ずしも「異常」ではない。

私に見える世界は、たとえ私の中だけのものだとしても、確実に、揺るぎなく存在している。

雪が舞う空を仰ぎ、この世界に生きる、まだ見ぬ他の共感覚者たちに、思いを馳せた。

書こう。
私は、私にしか書けないものを書く。
私の文章を読んでくれる、画面の向こうの、血が通った誰かに届くように。

今日は、十二月二十二日。
冬至が明けた。
闇は徐々に浅くなり、空は、再び光を取り戻す。
季節は、止まることなく巡っていく。

雪が解けても、梅や桜が咲いても、空が高く青くなっても。
坂本龍一さんの「戦場のメリークリスマス」の色は、白だ。

私の命が尽きるまでずっと、この曲は、まっさらな白のまま、存在し続ける。

<了>

#紅白記事合戦2024
#白のエッセイ


このエッセイは、下記企画への参加記事です。
きっと、宝石箱から、珠玉のエッセイたちが飛び出してくるのでしょう。
楽しみに読ませて頂きます。なんて素敵なプレゼント交換! 

このエッセイで一つ、自分を解き放てました。
運営の皆さま、お疲れ様です。
素晴らしい企画を、本当にありがとうございました。


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