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大地に抱かれて #音楽の薬箱

曲名:大地讃頌(混声合唱とオーケストラのためのカンタータ『土の歌』より)
作詞:大木惇夫
作曲:佐藤眞
効能:仲間たちと歌うと、自分という存在を肯定できる

***

中学校に行けなくなって、一年とひと月が経つ。
「人を感動させるオペラ歌手になる」なんて、無邪気に言えていたのは、たしか小学三年くらいまでか。

五月の光が、木目調のリビングに差し込む。庭の八重桜が、ずっしりとした濃い桜色の蕾を少しずつ開いていく。

ベージュの三人掛けのソファに膝を立てて座り、ぼんやりと口を開けて、太陽を見上げていた。

「希、和香ちゃんから」

お母さんから、手紙を手渡された。嬉しそうな顔を作って受けとる。
お母さんには、心配ばかりかけていて、申し訳ない気持ちしかない。
けれど私は、もう学校には行けない。

和香は、小学校からの友達だ。大事なことを伝える時、和香はメッセージアプリを使わない。ふんわりとした柔らかな、真っ白い紙の封筒は、いかにも和香らしい。

グレーのスウェット姿の自分が、どうしようもなく冴えない。
伸びた前髪を指で弄び、息を吸って、封を切ってみる。
封筒からは、かすかに和香の匂いがした。

希。
元気にしてるかな。
私、四月から、野尾都のおと市の市民サークルに入ったよ。
合唱の市民サークル。私はピアノ伴奏担当。
ね、希。
歌わない?
希の歌、聴きたい。
おねがい。

手紙には、それだけが書かれていた。
鼻の奥がツンとして、上を向いて涙をこらえた。
歌いたい。歌いたいけど。

勇気を出して、お母さんに、手紙のことを話した。

「希は、どうしたい?」

ぼろぼろと涙がこぼれる。何度も声を出そうとして、けれど声にならない。

「歌いたい。歌だけは諦めたくない」

ひっ、ひっと震えながら、必死でお母さんの目を見た。

「希。わかった。お母さんと一緒に、ちょっとだけ行ってみようよ」

お母さんは、そっと私の手に触れた。
温かく、乾いた手だった。

金曜日の夜、白と黒の目立たない服を着て、腰まで伸びた髪を襟足で一本に結んだ。お母さんに車で送ってもらい、市民サークルの練習会場に辿り着く。

会場は、私が通っていた小学校の体育館だ。
思い出が頭の中をさあっと駆け抜けて、足が竦んだ。
それでも私は、歌を諦めることが出来ない。
勇気を出して、廊下を一歩一歩進む。
体育館の扉をそっと開けると、轟音が鼓膜を震わせた。

母なる大地の懐に 我ら人の子の喜びはある

大木敦夫、佐藤眞「大地讃頌」より

背中と腕にぶわっと鳥肌が立つ。
様々な色の声の束が、突風となり、私の心に吹き込んだ。
「大地讃頌さんしょう」だ。

男声の低音と、女声の高音が共鳴して、ハーモニーを生む。

人の子ら 人の子 その立つ土に感謝せよ
(人の子ら 人の子ら 人の子ら 土に感謝せよ)

大木敦夫、佐藤眞「大地讃頌」より

合唱団員一人一人の顔に目を凝らす。団員の年齢は様々だ。
制服姿の高校生らしき若者もいるし、スーツを着た仕事終わりの社会人、さらにはお年寄りもいる。
皆が歌う姿勢は、真剣そのものだ。

難しそうな伴奏だな、とようやく気づいた時、ピアニストが目に飛び込んだ。間奏を高らかに奏でているのは、和香だ。

荘厳にマエストーソ

耐えきれずに呟いた。
ここなら、ここでなら。

恩寵の豊かな 豊かな 大地 大地 大地
(我ら人の子の 我ら人の子の 大地を誉めよ)

たたえよ、たたえよ 土を
(誉めよ たたえよ)

大木敦夫、佐藤眞「大地讃頌」より

私の口からこぼれた、気まぐれな独り言のような歌詞が、徐々に音量を増す。呟きは、旋律を得て、歌になった。

気が付くと私は、体育館の入口で、「大地讃頌」を歌っていた。
大きな声で、朗々と、荘厳に。
泣かないために、歌わざるを得なかった。
大地のゆりかごに抱かれながら、私はこれでいいのだと、歌い続けていいのだと、心の底から思えた。

団員の何人かが私に気付く。
変に思われただろうか。
いや、そんなことはもう、どうでもいい。

歌うことは、楽しいだけじゃなくて、私が私自身であることと、切り離すことができないのだから。

歌が好きだ。
私は、歌を歌って生きていく。

突如、ピアノがぐしゃりとした不協和音を奏で、急停止した。
私の存在に気付いた和香が、ピアノの椅子から飛び上がり、ポニーテールを揺らして全速力で駆けてくる。和香が着ている中学の制服を見ても、もう怖くない。

「希! のぞみい!」

和香は、大声で叫ぶと、思い切り私を抱きしめた。

「来てくれたんだ! すっごい嬉しい!」

泣いている和香の髪は、手紙と同じ匂いがした。

「よしよし。泣かないでよ、和香」

私たちを優しく見つめる、団員たちの視線が温かい。
和香が、涙を拭って大きな声を出した。

九音くおん希! 私の親友で、今日から野尾都のおと市民合唱団の団員! 将来はオペラ歌手になります!」

歓声が沸き、拍手が起こった。
信じられなかった。こんなに優しい世界があるなんて。

ここでなら、歌える。
私は大きく息を吸い、頭を下げた。

「九音希です! 今日からよろしくお願いします!」

<了>

この記事は、こちらの企画の主催者見本記事となります。

企画名:音楽の薬箱


あとがき:
大地讃頌は学生時代に合唱コンクールで歌ったことがあります。
重厚なハーモニーが素晴らしく、人間は土がなければ生きていけないのだなと気づかせてくれる曲です。


ここにお示しした小説は一例ですので、基本的な様式を踏まえ、ぜひ自由に音楽を語っていただければと存じます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

#音楽の薬箱
















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