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四神京詞華集/NAMIDA(21)

【夜明けの前は……】

広澄は大きく伸びをすると、寝間着の上から一枚羽織り、ゆるゆると沓まで履いて庭に降りていった。
もはや呉女などには振り返りもせず。

家来1「大事ございませぬか?」
広澄「ああ、爪も牙も立ててこぬ。大人しいものだ。ご丁寧に面を被り醜怪な顔まで隠してくれている」
呉女「広澄様?」
家来2「何か申しておりまするが」
広澄「気にするなよ。鬼の唸り声に意味なんてない」

広澄は穏やかな笑顔のまま、家人どもの背に隠れた。

家来1「しかし我らに鬼退治などと……」
家来2「もうすぐ衛士が参りますれば縄打つだけでご容赦を」
広澄「ならぬ。卑奴呼が騒ぐ。疾く討ち果たせ」
家来3「わ、我らも呪われませぬかの」
広澄「鬼に魅入られた哀れな卑奴呼を救うためだ。戻って来た時すでに骸と化しておれば諦めもつくだろう」
家来1「卑奴呼卑奴呼と。なにゆえ穢人ごときに、そこまで情けをかけられまするか」
家来3「殿。政に携わられる身となればいつまでも格下の女子ばかりと戯れておってはなりませぬ」
広澄「家格などむつみごとには邪魔だ。褥で賢しき口ぶりをされては、実に萎える。子を作るは権門の姫だが、遊ぶは端女に留め置けば良かった。全く戯れに地下の女子に手を出したが間違いだったな。鬱陶しくてかなわん」
家来2「されど下卑た悪友と違い、女子ならば左遷をもって遠ざけるわけには参りませんぞ」
広澄「だから今が『切る』機会であろう。我こそ才女よ宴の花よと己が身の丈を見誤った地下郎女が、周りの妬み嫉みを買って都合よく呪われてくれたんだ。鬼退治の手柄も含めて一石二鳥。これで不比等様も俺を覚えてくれるだろう。ははははは」
家来3「無体な。仮にも好を通じた姫君でしょうに」
広澄「無体? 今はおぞましき一匹の夜叉ではないか」

広澄は一人老いたるその家来の胸倉を掴む。

広澄「何が才女だ。優しく戯れておれば図に乗りおって。女子ごときに輩(ともがら)と思われてはこの広澄の名が廃る。紀家の名が汚れる。そうは思わんのか貴様は!」
家来3「も、申し訳ございませぬ」
広澄「女子の歪んだ恨みつらみが都を騒がすとあれば、それを正しく鎮めるが男の役目。都は、国は、漢(おとこ)の武が治めるものだ!」

呉女は目の前で何が起こっているかさっぱり理解できなかった。
広澄たちが何を喋ってるか全く頭に入ってこなかった。
ただただ、震えていた。
汗が噴き出ているのに鳥肌がたっている。
目がかすんでくる。
息ができなくなってくる。
怒りでも悲しみでもない、鳩尾のもっともっと深い所からくる何かが、飛び出して破裂しそうな振動が、体を壊そうとしている。
心が最早一秒たりとて生き続けることを拒んでいる。

「嫌だ。もう嫌だ。消えたい。今すぐ、消えて、なくなりたい」

しかし次に続く広澄の言葉が呉女の魂魄を現世に留めた。

広澄「しかし卑奴呼は……穢人はいいぞ。どうとでも思いのままに愛でられるからな。輪廻の外に在る美獣ならば神仏も罪には問うまい」

呉女はこのおぞましい台詞に感謝した。
弱く萎えかけた心に一気に血を注いでくれたからだ。
憎悪も羞恥も自己嫌悪も絶望も全てを怒りに転嫁できた。
むしろ陶酔すらした。
漲る力の源がたとえ歪んだ正義であったとしても、どろどろと人の姿らしきものを形どる汚らわしい色魔から大切な卑奴呼を守る。命の危険を前にしてなお噴き上がる憤怒の一念は今、おそらくは呪いをかけられるずっと前からいじけひねくれていた性根を一撃で叩き直した。
己が人生の、主人公へと。

広澄「さあ、四神京を穢す鬼を討て!」

一閃の矢が呉女の額を割った。
獏もまた手から滑り落ちて割れた。
主人公の名を、慧子という。
慧子の瞳は俤人と見誤った男を真っすぐに射抜く。

そして彼女の最後の夜が明けた。

(つづく)

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