地球の子 / 紀政諮
この小説は、総合表現サークル“P.Name”会誌「P.ink」七夕号に掲載されたものである。本誌は2023年7月7日に発行され、学内で配布された。
○
会場は自由席だった。植民百年を誇るように全て木で出来た椅子の、いちばんいい席をひろう。フードを深く被る。座面に置かれたパンフレットをとる。使い捨て鉛筆をつまみ、アンケート欄をひらこうとした。
かたん。意味もなく、照明が落ちる。
「本日は立盟しずかのうみ中央学館、開館百周年記念オープンセミナーにお越しいただきありがとうございます。この講義が一般月面市民の方々に解放されるのは学館活動とその歴史にご理解いただくため、また、入植百年の市民史を偲び一層の共政精神の深化を図るためであります。私、学館月面社会学研究科教育史専攻のアチメと申します。では始めましょう」
アンケートをリュックにしまう。書くことなど無くなった。私はこのアチメという男に会いに来たのだ。
「学生時代、私はこの学館の学胞共政協議会の議長をつとめておりました」
最前列に一人、やたらと身だしなみがよく、やたらと話に頷いている奴がいる。うざい。
「教育史を専攻しているのはそれも理由のひとつです。本日は、私の学生時代に直面した自治運動の中から特に印象に残ったものを紹介し、そこから月面社会の特徴を紐解きたいと思います」
そういってアチメが合図すると、最前列の席に座った男がタブレットを操作する。客席と教壇の間にホログラフィボードが表示された。
私は、さらり、カバンを手ではらった。私はふりかえる。このクレーターに起きたこと。このクレーターに起きること。
●
人類が月に入植して九十数年——月に学校ができて凡そ七十年。いわゆる「月協定」第十一条は健在である。
ある日の文化祭ステージ。マイクの前に立つ歌手の姿に、皆が首をかしげていた。
彼が男なのか女なのかわからない。
——And now I'm all alone again
Nowhere to turn, no one to go to
Without a home, without a friend
Without a face to say hello to
And now the night is clear
Now I can make believe she's here
原曲を知っていた人間は少数。
——Sometimes I walk alone at night
When everybody else is sleeping
I think of her and then I'm happy
With the company I'm keeping
The city goes to bed
And I can live inside my head
歌詞はアレンジされていた。自己紹介をするように、そのひとの歌が回りだす。
——On my own
Pretending she's beside me
All alone I walk with her till morning
月面に国家は存在しない。
人々は「国家的存在」には所属していない。その代わり、複数存在している私的なあつまりである「社団」に、目的に応じていくつも「契約」する。時には自分で社団を立ち上げることさえある。
たくさんのサークルを兼部して「界隈」に溶け込む大学生を想像してほしい。月面の生活はこれに近しかった。文化と生活のあらゆるインフラはすでに社団によって管理されている。
——Without her I feel her arms around me
And when I lose my way I close my mind
And she has caught me
無政府主義者がいつか夢見た社会がそこにあった。多種多様かつ膨大で、オーバーラップした相互引責ネットワーク。それによる社団自決秩序。
真の自由がここにはある。この星に「支配」は存在しない。全ては自らの選択、自らの契約しだい。月面の人々はこのコンセプトを「共政精神」と呼んだ。曰く、私達は理想郷を建設した!
月面市民のマジョリティは、そう考えていた。実際その革新性と拡張可能性はめざましく、母星であるところの地球を将来、経済および軍事的に脅かすとさえ考えられていた。
——In the stars the ocean shines like silver
All the lights are milky in the river
In the darkness the scenes are full of starlight
月面社会には「国家的支配秩序」を嫌う傾向が強くある。なにかをみんなで管理したいなら、関わる人間だけで社団を作ればいいじゃない。——月面社会学ではこれを「社団自決の原則」という。
しかしその他にも無自覚のうちに、彼らは特筆すべき傾向を月面社会で醸成していた。
入植を効率的に進めるためには労働力が——「子供」という資源が欠かせない。子をよく育て、よく学ばせ、そしてよく自決させるべし。次世代の育成には、莫大な投資が集中する。
このため月面には早い時期に学校ができた。労働力の確保のみならず、社団自決秩序の担い手たる主体性の生育も重視された。
——And all I see is me and her
Whenever ever after
そうしてとられた手段は、不介入である。
「設備とカリキュラムは最高のものを用意します。その他やりたいことがあれば、君たちで勝手にやりなさい。それであぶれたり落ちこぼれたりしても、それはあなたの自己責任です」
月面の子供にふりそそぐ、莫大な投資および指導的無関心。大人たちの「雰囲気」がこれを形成していた。
——And I know it's only on my own
That I'm talking to myself no relying on
And although I know that she is blind
Still I say there's a way approach for
また、入植のためにはそもそも労働力をよく「生産」しなければならない。子を早く持ち、よく産み、よく育て、子を早く産ませよ。このため、育館および学館はマッチング機構としての性質を色濃く持った。
生産活動および精神活動における男女の性的役割分担はすべて「生殖機能における性別」に固着された。「恋愛をしないという選択」を公然とあざけるようにさえなった。これも決して統一的政府の政策などといったものによるのではない。大人たちの「雰囲気」によってのみ立ち現れた、月面社会特有の現象である。
——I want her
But when the shade covers on
She is gone, the ocean's just a shadow
Without her the world around me changes
The crater's bare and everywhere
The school is full of strangers
ある時代。
月に育館(中学および高校にあたる)と学館(大学にあたる)が建てられて十六年が経った頃。
大人たちは理解できなかった。学生たちが月面秩序を否定するような運動を起こしたのを。
「地球に巡回する権利もないのに、どうして、月面に真の自決があると言える! 自由意志への必要不可欠なチケットとして、我々には『地球回帰権』がある! 『基本的人権』を月面にも認めよう!」
地球回帰闘争。
歴史はそう名づけた。
——I want her
Then every day I'm learning
All my life I'd only be replaying
月面では、あらゆる権利は契約によってのみ保障される。つまり「生まれながらの」人権など無い。彼らの感覚で言えば、有無を言わさず契約「させられる」社会、それが社団自決秩序。
ならばせめて、もっと違う形の契約秩序がある社会、自ら何もしなくとも、あまねく基本的人権のある世界——つまり地球に回帰することも、選択肢のひとつであるべきだというのである。その上でなおも月に残るというのならばそれは紛れもなく「自決」だ。しかし選択権もなく「自由を強制」されている今、月面秩序への迎合など彼らは手放しに喜べない。
——Without me, her land will go on running
A world that's full of happiness
That I have never known
彼らの多くは物心つく前に月に連れてこられたか、もしくは月面で生まれた世代。地球という「国家支配領域」を離れ、月面という「自決秩序領域」に入ることを——この奇妙な世界に産み落とされるのを、彼らは「望んで」などいない。
大人たちは彼らを理解できなかった。自ら月に降り立った彼らには、物心がついた頃には月面市民であった彼らの気持ちなど理解不能だった。
——I want her
I want her
I want her
それに、言語化こそ拙いものの、大人などより子供の方がよほど、違和感を察知する力には秀でていた。なぜだろう、そういった感覚が最も正常な時期というのは、十六歳とかそのあたりなのだ。
——But only on my own
しっとり、ぱらついた拍手。半分はきっと彼の英語がよくわからなかったに違いない。
文化祭実行委員の生徒が、そそくさとその場を次の演目に移らす。
「なあ」
足はいつのまにか、彼に向かっていた。ステージを降りてひとりの観客に戻った歌手に。
「あなたは、地球回帰主義者なのか?」
問う。薄い客電とまばゆいステージのはざま、彼の困惑した表情は半分仄暗かった。
「——外に出ようよ。そこで話そう」
体育ドームの勝手口(出演者専用の出入り口になっていた)から外へ出て、ドクダミの茂る木陰、彼は在館児カードをすっと差し出してきて、
「名前は『イト』。学館附属第六育館第三年」
顔写真を見て、それですら朧げではあったが、ようやく性別を判断できた。
「在館児番号は二三七六ー二九七九ー六。歌ったのはレ・ミゼラブルっていう小説の、舞台版、のさらにその映画版の劇中歌……のボクの替え歌。どうぞメモってもらって。もともとそのつもりでコレを歌ったの」
「待て、僕は別にあなたを文化祭から追放しようっていうんじゃないんだ」
「んん、しっかりつけてるのにね、生徒会の腕章」
つるりと細長い人差し指が、群青色の帯にあたる。ムダ毛のひとつもない肌が、なんだか人ではないみたいだった。
「……僕は文化祭の実行委員じゃないんだよ。執行委員だけど、選管のほう。ほら、このステージのあと、来期の執行部と立法委員会の立候補について案内するでしょ。そのために待機してた」
ふうん、と信じきられないといった顔が覗きこんでくる。まばたきに、彼の視線が差してくる。くるくる、思考は回って、そうか、と思い至る。
「こっちも名乗らなきゃ不公正だったな。六育生徒会選挙管理委員をしてる。名前はアイ。番号は七九〇七ー二九七九ー六。在館年はあなたと同じ三年だ」
「タメじゃんね。呼ぶならイトって呼んでよ。っていうか男でアイってちょっとめずらしくない?」
「そうか? なんとも思ったことなかったけど」
少し気まずい空気。
「……ああー、ううん、ボクが古典アニメばっかり見てるから、地球時代の感覚でモノを言ってるかも」
自分を守るように優位を主張していたイトの顔が、ほのかに遠慮を帯びる。
「大丈夫。たいがい僕だって男らしくないからな。慣れてる」
また気まずい。ドクダミが大気組成を保全する香り、漂って更に不快。しかしアイはなぜだか、この雰囲気が嫌いではなかった。
「——というか、やっぱり地球回帰主義者なんだ?」
「んー、どうだろう。ボクにもわかんない」
メモを取る気などないのだと悟って、イトは在館児カードをアイからとりあげた。
「月面の社団自決は『ほんとうの自由』じゃない。納得できない。そこはおんなじ。でも……んー……」
イトはずっとカードを眺めている。
「わからない……んだ」
アイが言葉をさしのべた。
「そう。わかんない。なにがわかんないって、まずなんでボクが納得できないのかをうまく説明できない。あと、何をするべきなのかもわかんない」
イトはカードから目を上げて、縮質大気に屈折してほのかに赤い昼間の星空をながめた。
「地球に帰るのを目指せばいいの? それとも……このクレーターを潰せばいいの? ……わかんないから、歌に逃げてるの。それだけ」
ちらちら、目に映る星々。自己紹介というよりは、またたきに願う幼児のよう。こいつは宇宙が心に近い。アイとの間に維持された心理的な壁とは鮮烈な対比。
「潰す、っていうのはなかなかキュウシンテキだね」
ある種の可能性を覚えた。こちらの重力圏にイトを巻き取ろうとした。
「なにか嫌な思いでもしてきた感じ?」
「確かにカゲキかもね笑。ほんとうは、ちょっとでもマシになったらいいなって、それだけだよ」
話題を逸らされてしまったが、そのひどい表情を見ずとも、アイにはたいがいの察しはつく。
「僕はね、あなた——イトみたいなのが表に出てくるのは、いいことだと思うんだ」
体育ドームの音が止む。またひとつ演目が終わる。勝手口から拍手が漏れ聞こえて、大気は人工的な対流、ドクダミの葉がさささと揺れて、ここには二人きり。
「次の立法委員選挙、出馬してみる気はない?」
●
「まあ、とりあえずコレで進めますけど……」
選管委員長の声色は少しやわらかい。
「たぶん、公約を少しおだやかにした方がいいですよ」
表情も、別になにか叱るような色をしていない。しかしその忠告は、アイの胃をきゅうっと寒くするには十分だった。ちらりとイトの顔を見る。
「それは……どうしてですか?」
抵抗というよりは純粋に理解が追いつかない。問答の色合いを委員長はやさしく察する。
「登校時の服装やメイクに関する生徒会規約の緩和、生徒会主催の実習カリキュラムにおける役割の男女峻別の撤廃。中身について私からはなんとも言いません。選挙は公正に管理されます。しかし……」
委員長は、面談室の壁にかけられたパネルに目のピントをあわせた。
重厚な額縁に、古臭い繊維紙。インクの文字。
「そういった規約を改正する際は、学政協……学胞共政協議会のことですね、そこに拒否権があるんです。もし拒否されたら再度改正を成立させるには、第一から第六まであるしずかの海のすべての育館が集う『大会』を通すしかなくなります」
説明が続く、のかと思いきや、す、と委員長の口が閉ざされる。しばしの沈黙。賢いあなたたちならわかるでしょう? という無言の出題。
答え合わせをしたのはイトだった。
「実現可能性が低い。だから、それは果たせない公約ということになる。自決秩序の考え方からすると、公約とは、投票してくれた人たちと当選した人との間に交わされた契約でしかない。達成できなかったら契約違反。許されない。だから、やめておくべき……ってことですか?」
「はい、そうです。特に、男は男らしく、女は女らしく、という原則を覆そうとする動きに学政協議会は懐疑的です。残念なことに、それは非常に『地球的』な思潮だとみなされがちなので」
午後のひなたに差しかかる。地球の影から太陽が顔をだして、地球の大気をかすめた光はこうこうと赤く部屋を満たす。
イトを見る委員長の目はまだ暖かかった。言葉は皮肉でもなんでもない。しかしなんだか耐えられなくて、イトも憲章の方をながめた。
「それは」
アイが口をはさむ。
「やっぱり、回帰闘争を繰り返さないためなんですか」
「歴史的経緯としては、はい。若い人間が勝手なことをしないように、上級生が監督をする、という考え方ですね……。ちなみに、アイ委員、『大会』を招集する要件はご存じです?」
その問いかけは、ちょっとした期待でもあったのだろうか。
「ええと、学政協が認めた場合か、もしくは、全ての育館が要求した場合か、でしたっけ」
「そう。だから、生徒会規約改正は学政協が首をつっこまない程度のものに抑えなきゃいというわけです」
しだいに露わになる太陽光が、地球の大気を飛びこえて、月面の縮質大気に屈折した淡いオレンジ色に近づいていく。白む一室イトの横顔が浮かぶ。
「だったら——」
◯
六つの育館すべてを集めることも公約に入れちゃえばいい。
「かくして彼らは、より壮大な公約を編成して選挙に臨みました」
アチメが何もない空中をくいっと手繰ると、ホログラフィボードに視認性の高いアカデミックフォントの箇条書きが浮かぶ。
「つまりはこういうことです。『自分たちは規約を変えたい。そのために、育館が報・連・相をできるような枠組みを新設したい。もしそんな枠組みができたら、規約改正のみならず、サークル活動のコラボだったり、大規模イベントの開催だったり、ともかく、課外活動を活性化するのにも活用できる。それを実現させるために、私を立法委員にしてほしい』——と、彼らはそんなふうに、館内の様々なサークルに営業をかけて『組織票』を依頼しました。みなさんの感覚からすれば普通のことです。しかし、これは月面社会ならではの市民感覚と言えます。地球では、こうした活動はむしろ裏工作だとか集団票だとかいうことで批判されるのです、興味深いことに。——選挙のしくみという側面から、両者を比較しましょう」
そしてアチメは自分の研究分野の講釈を始めた。なるほど確かに面白い。学術に裏付けされた信頼できる分析である。しかし私にとっては、なんだか地球社会のネガティブキャンペーン、月面ナショナリストのプロパガンダのように見える。学術的であることと、思想的であること——おそらく、両者に境界線などない。
宇宙空間と大気圏には渚しかないのを思い出した。再突入の際の熱気を思い出した。
それとよく似ていた。
●
「なあ」
影期をひとつぬけ、開票日当日になった。二人して、椅子の背もたれによりかかり、ぐで、と、スマホの画面に目をそそぐ。
——当選必要票数 五〇票
——立候補名 イト 二三七六ー二九七九ー六
得票数 五〇 以て当選とす。
「これからどうしたい?」
この間、アイは選挙管理委員会を離脱してイトのサポートに徹底した。サークルも休んで毎日、放課後にはイトの待つ図書室のラウンジに向かう。公約の仔細を練り直しては、次はあのサークル、次はあの委員会、とロビー活動の作戦会議をした。交渉はアイの仕事。代表者をつれてくるのもアイ。そして、心を動かすのはイトの仕事。
「当選ラインをクリアできたのがもう夢みたいなものだよ。アイのおかげだ。ぎりぎりだけどね」
シックなガラス窓から図書室に夕陽がさす。イトの表情がアイにはよく見えた。
「イトの考えと情熱あってこそだろ」
「情熱……。情熱、か」
太陽の色に染まる顔のまま、イトは語る。
「ボクのこれって、ほんとうは、きっと情熱なんかじゃないよ。ボクはただ、ボクに理不尽なことをする世界が怖いだけ。だから動かなきゃ不安になるってだけ」
これからどうしたい、なんてアイが尋ねたのは、活動に忙殺される日々の中、なんだかイトの「本当の気持ち」が自分から遠ざかっているような危機感があったためだ。そこに打算はない。しかしイトのこの一言で、アイはその気持ちを打算的に理解してしまった。
「つまり、だから歌を歌っていたし、自分を守るために、攻撃的にも、刹那的にもなっていたってわけか」
言語化をして、すぐ、なにか不正解をしたような気持ちになる。
「……そっか。そうなるか。けど、うん。そうだね。ボクはそうだった。不自由を憎むのに、自ら不自由を受け入れてたみたい。安心するために、だね。そんなやり方には、まあ、出口が無かったんだけど」
心半ば安心して、続くイトの言葉を傾聴する。
「それを変えてくれたのが、アイだよ。ボクは、自由を勝ちとる方法を知った」
これほどまでにアイの心を絡めとってしまう、イトの魅力とは何だったか。それは決して、クワロマンティシズムに富んだパーソナルな議論に終始しない。
実態なき使命感をもっていて、人生を価値ある物語だと考える。自己中心的で自己実現的で、だからこそ、自棄的。自分を俯瞰するくせに客観性に乏しい。物質的に満たされていようがいまいが変わらない。そういうどこか乾いた根性の人間というのは時代も星も問わずありふれている。そして、自棄をして全てを捧げるに値する何か、誰かを求めている。
だから演出に弱い。「自分より上位の物語」に弱い。
その依存は理性的なものか、動物的なものか。
要は照れてしまって、アイは本題に戻る。
「……じゃなんだ。次はあれかな。『安心したい』、ってところかな。目標は」
この時アイは、一人の活動家を育てあげた、などという独善的な感が高ぶるのを覚えた。地球時代の心理学にいうと、人が人を「助ける」と、助けられた側より、助けた側の方が相手に執着してしまうのだそうだ。
イトは目をとじ、少し考える。
「安心ね。……ねえ、ヒトがいちばん安心できる瞬間って、いつだと思う?」
まぶたが、ちろり、ひらく。
「おかあさんの子宮にいるときだよ」
●
昔。
初等育館に入るのを一週間後ほどに控えた頃の話を、私は聞いたことがある。
生前に本人が契約していた告別式会社の手引きで、イトは、母の親戚というものを初めてみた。
「次の家族を、君が決めていいんだ。君が選びなさい」
母は、あたたかい人だった。受け入れるひとだった。イトのやりたいこと、そうありたいものに決して手を出さず、しかし、イトを放任することもない。
月面では親子関係すら契約に基づいている。ただし、子は母親の臓器の一部であるところからスタートする。だから子が生まれると、そのままでは、その子に関するいっさいの決定権を持たない。そして基本的には生誕の際、母が一方的に「基本的な親子契約」を宣誓する。多くの場合は父が立ち会い、その「契約」の保証人になる。契約が成立すると、ようやくその子は「契約をする主体」としての自決権を獲得するのである。
父の立ち会わない特殊な出産に伴って、イトの母親が宣誓した契約はシンプルだった。
「あなたがなりたい自分になれるよう、わたしは必要なことをします。だから、あなたはなりたい自分を、素直に、無垢にもとめてください」
母は契約を忠実に履行した。決して裕福ではない家庭で、ただイトの考えを尊重し、イト自らが過ちに気づくのを歓迎し、イトが自らイトを形作るのを手助けした。
あたたかい人だった。受け入れる人だった。
ぎょっとした雰囲気が場を支配している。まずもって親類が死んだのみならず、その伴侶が失踪していたのを彼らは今日初めて知った。たしかに、親戚一同みな重々しい顔になるのもわかる。
しかし、殊この際の、ぎょ、とした雰囲気の理由は、紛れもなくイトの格好にあった。
「ボクは……」
新しい親をえらんで再契約なんかしなくても、一人で生きていけるよ。……とは流石に言えなかった。「イエ」という生産的な契約ネットワークに依存することでしか、教育を受けることも、食いつなぐこともできない。なりたい自分を素直に、無垢にもとめられない。
省みてイトは悟った。
そうはなりたくない。……ボクは弱い。
注がれる眼差しがいちばん「マシ」だったひとりの大人に、すた、すた、とイトは寄る。
「あなただったら、ボクと、どんな契約をする?」
すると一転、困っちゃうなあ、という顔をした。
ああ、ダメだ。これはいちばんダメな大人だ。
「えっと……『ボク』ってことは、えっ? 男、だよな? お前」
結局、最も放任主義的だった大人と再契約をして、自分のやりたいようにやろうと試みた。
すると、母親が与えてくれていた環境がいかに箱庭だったのかを思い知った。育館に入ると、まずイトには成績達成目標が科目ごとに提示された。そこには、優秀であるべき成績と、劣等であるべき成績とが明確に、性的な役割分担に基づいて分けられていた。習熟度テストは座学、実技ともにあったものの、その結果よりもやはり「目標値」に基づいたクラスに誰もが組み込まれた。結果、少人数クラスは例外なくホモソーシャル。イトが孤立するのは必然。
「孤立……で済めばいい方だったよ」
私の回想にイトが割り込んでくる。
「地球の『学校』では、生徒間のトラブルには先生が介入して解決するらしいじゃんね」
宇宙の色を背景に、花道から、イトの声が歩み寄る。
「君はしらないかもしれないけど、月の先生はそんなことしないんだ。生徒のトラブルは、生徒が解決する。だから生徒会には『調査委員会』なんてのがあったりしてね。けど、ボクみたいなタイプが彼らに頼れるわけもない」
私の眼前にイトが立つ。手が伸びてきて、心に指がからまって、私の脳は熱を帯びる。
「月面ナショナリズムっていうのはさ! 自己責任論を煮詰めてできあがった社会を『完全に自由』と言うくせに、その社会に、強い強い同調圧力があるのにぜ〜んいんが目を背けちゃう空気感のことだ。そこには選択肢『しか』ない。そこには自由なんかない。そこにあるのは、ただ自分を自由な存在と錯覚しただけの動物の群れ。無自覚な全体主義者。自分を霊長のたぐいだと勘違いしている虫ケラたち。……それだけなのよ」
イトが集団から逃げるように入り浸った図書室に、ホッブスやルソーが置いてあったのはある意味では暁光だったたらしい。イトは自らの立場を保ちつつ、月面社会のことを学術的に考察できた。
しかし、では、どのような行動を起こせば良いのか。イトにはそこだけがわからなかった。図書室には「地球回帰闘争」に関する文献は一切置かれていなかった。イトは「すべきことのモデルケース」を知れなかった。
「ある日、図書室に置いてあった地球のミュージカルのDVDをたまたま見てた。……ボクには衝撃だった。自分の望みのために、世界に『救われようと』する。世界に『奉仕しようと』する。そして、世界を『変えてしまおう』とする」
イトは私の手からリモコンを奪いとり、モニターを表示する。レ・ミゼラブルの上映が始まる。
——Look down, look down
Don't look 'em in the eye
Look down, look down
You're here until you die
私の後ろにまわり、肩に手を置いて、
「けど、映画の世界とは違ってね、ボクの月面には『世界』なんかなかったのさ。だから、ボクは歌うしかなかった」
顔を突き出して耳元でささやく。
「『下向け、下向け。目を合わせてやるな』ってね」
示唆を与えたのはアイだった。だから、アイとの邂逅は、たしかにイトにとっての二度目の暁光ではあったのだ。
●
「おかあさんの子宮にいるときだよ」
ひとみがまつ毛にまたたいて、奥から、イトの心の小宇宙がこぼれていた。
はじめて見るものだった。
少し、怖い。
それは別に、初めてみる深層だったからではない。
そんな深層を僕は持たない。
叶わない。手に負えない。
そんな存在に、僕は依存している。
●
「六育の生徒会が?」
学館のキャンパス中央、カフェの中。オレンジジュースの氷がゆれた。
「うん。規約を変えようとしている立法委員の子がひとりいて、俺らに『拒否権』を発動されたとしても『大会』を開くことができるような報連相の枠組みをつくろうとロビー活動をしてるらしい」
聞き手の男は、あまり生気のないまぶたのまま、オレンジジュースのグラスをぬぐう。
「なあ。アチメ的にはどうだ。学政協議会議長として、なにかアクションをするべきだと思うか?」
すると聞き手の男はグラスから手を離して、ついた結露を指の腹でつぶしながら、
「……まあ、それでほんとうに全部の育館生徒会を集められるというのなら、問題はないんじゃないか」
冷静なトーンで的確に回答する。
「あのルールは基本的に、また『あの頃』のような、大人が子供を突き放すような事態になるのを防ぐためのものだ。そんなことにはならんだろ」
「実は、状況は『あの頃』にちょっと似てるんだ」
からん。
氷の塔が崩れる。
「……そうか」
このとき、聞き手の男は議長になった。
副議長が緊張感のない面持ちで議長の顔をのぞく。
「……来週の執行監査委員会で、すこし話し合おうか」
若干。本当に若干の機微である。
哀しそうな顔をしていた。
●
●
月の地軸はわずか五度程度しか傾いていない。故に地球ほど激しい季節変化はなく、カフェのメニューも変わり映えしなかった。
報告を受けてから約半年。アチメのオレンジジュースには、まだ氷が浮いている。
「よ。ただいま」
副議長が軽く手をふった。適当に応じると隣に座ってきて、任務の結果を報告する。
「今日は第四育館生徒会の立法委員長と会ってきた。ほかの生徒会とちがって、俺らを怖がらずにあけすけと本音を語ってくれるから話しやすかったよ」
「そうか。例の第六育館の委員長とは違うんだな」
「あの人はねえ。『例の子』が立法委員に立候補した時に選挙管理委員会でも委員長やってたんだって。背中を押すようなこと言っちゃったらしくって、僕らに恨まれてるんじゃないかって勝手に怯えてんだよね」
「まあ……そうか」
副議長は「はあ〜つかれた〜」と呟きながら大きく足を組み、カフェのメニューをひろげて続ける。
「みんな俺らのこと勘違いしてんだよ。そうやって距離をつくるから面倒なことになる。今度の『全協議』の動きだってそうだ。こっちは別に抑圧しようなんて気はないのに、わざわざ『独立性を確保する』とか、やっぱ被害妄想っぽい感じがあると思うんだよなあ俺は」
アチメは学政協議会の幹部のうち、共政理論に最もあかるい学徒であったし、会の歴史的な経緯を最もよく知る人物でもあった。
だからこそ「育館生徒会は学政協議会を恐れている」というふうな話を聞くたび、なんとも反応に迷ってしまう。
「——なんというかな」
アチメが口をひらくと、副議長はすぐメニューから顔をあげ、目を合わせてくる。
怯えもなにもない、純粋な「待ち」の目。
「君と話してると、私の性格と君の性格がいい対比になってな。私のこれまでを省みてしまう」
「おいおい、カフェでシケないでくれよ。地球産小麦パンケーキをこれから、おいしくおいしく食おうっていうのに」
否定的なことを言ったら、必ずチョケたオチを作る。上手い。人間関係に亀裂をうまない意見交換を実現させる、言葉の温度感の機微。こういうことが、アチメにはできない。「すみません、これ一つください」とオーダーを終えると、副議長はこちらに向き直って、
「まあ、俺はお前のそういうクソ真面目なところ好きだよ。頭がよくない俺でも、副議長をやる以上は理解しなきゃいけないことがある。そういうのを、お前は高い解像度でわかりやすく教えてくれる」
「君の要領がいいんだよ。わかって謙遜してるだろ」
「まぁね」
すこし得意げにニヤついてオチをつける。上手いなとやはり思ってしまう。
「……で、俺はなにを報告すればいい」
メニューをたたんだ副議長が話をひろげる。
「そうだな。『なんと言っていたか』と『なんと言ってやったか』の二本立てで頼む」
「おーけー」
ラックにメニューをしまって、語り出す。
「意外なことに、どの生徒会も前向きに検討していた。第五育館なんかは、全面的に賛成はできないにせよ、少し修正を加えた代案を提出するそうだ。その代案も協約の根幹はそのままらしい。『全ての生徒会を開催賛成派に拘束する』部分な。建設的反対ってやつだ」
「驚いた。足並みは揃っているんだな。どうしてそう上手くいくんだ」
「ひとつは、第六育館生徒会、特に例の子たちが中心になってしっかり事前に話を通してたこと。冷静に検討するだけの余裕を全ての生徒会がもっていた。それから四育の委員長曰く、やっぱり『育館は学館に抑圧されてる』みたいな意識は育館全体に共有されてるっぽい。立法委員の仕事は生徒会規約や学生団体との協約を新設したり変えたり廃止したりすることだが、やはり『憲章』があるせいでやりづらさを感じるんだと。『拒否権』を発動されるかも、となるとビビりながら案を作成することになるし、立候補の時の公約すら、かなりビビったものになる。だから『顔色を窺う』ことをもっと頻繁にやりたいが、学館には連絡窓口が一つしかない。『窮屈』なんだと言ってたな」
「ほー。随分素直なんだな四育の委員長は」
それは皮肉などではなかった。可視化してくれる存在は大切だ。組織の管理人というのは、構成員の意見の可視化の作業に割く余裕をしばしば失う。だから、素直に自分の意見を開示してくれる存在というのはありがたかった。
「や、あいつは俺と仲がいいんだ。『仲がいいと思ってくれてる』とも言うかな」
「そうか。なら私は君に感謝するべきだな」
「ん? どういうこと?」
「いやいい。なんでもない」
ほとんど氷のとけたオレンジジュースを口に運んだ。少し薄かった。
「で、君は彼になんて伝えたんだ」
「おう」
副議長の目が議長と合う。
「『それは国家的統制を構築するような話じゃないか』と指摘した。全会一致が原則なら何だって良い。それは地球でいうところの国連みたいなものだ。構成団体には自決権——地球でいうところの『主権』がある。しかしな……。『多数が賛成するなら少数の反対派は拘束される』というのは、構成団体の自決権を欠く。それは、地球から人類が月に移住した時に獲得したかけがえのない資源に……宇宙生命としての人類がその必然的進化の過程で獲得した『形質』に逆行するものだ。——だいたいそんなことを言ったかな。後半はお前の受け売りだけど」
「それで、四育の委員長はなんと」
「終始、聞きの姿勢だったな。向こうから特に新しい意見とかは投げられなかった」
「ほー。そうか」
中間管理職も大変だな、と、同情の念気持ち。少々自己嫌悪の雑念があるまま口を閉じる。さみしさに、またオレンジジュースを飲んだ。からん。氷がまた崩れる。ああ、今の自分には落ち着きがないな、なんて自己反省する。
「——なんか、俺まずいこと言っちゃったかな」
と心配げな副議長が顔を覗く。
「いや、それでいい。ありがとう」
オレンジジュースをコースターに置いた。
「そうとも。すべては『自決』によらなければならない。権利というのは、約束だ。決して『であるもの』であってはならないんだ。地球のようになっては——」
ふとアイデアが浮かぶ。氷はもう消えかかっていた。
「そうだな。彼らのような主張を、『新・地球回帰主義』とでも命名しようか」
●
かすかに歌が聴こえる。
か細く消え入るようであってかつ、トンネルの壁に反響し、何人もの声であるかのような歌声。
——Do you hear the people sing?
Singing a song of angry men
It is the music of a people
Who will not be slaves again
歌のする方に駆けた。暗がりだった。足元には少々の水があり、ぴちゃぴちゃと、焦る心拍にこだまする。
——When the beating of your heart
Echoes the beating of the drums
「イト!!」
鉄製の扉を開け放つ。視界がひらける。縮質大気の薄い高標高エリア。中途半端に色めく夕空に、横から陽の光をあびて青々としたコントラストの地球。それを背に、イトが待っていた。
「——あすの陽だまりが ここに昂ぼるよ」
高台にいて、地球をみていたイトの目は、す、とアイの方を向いた。
「……来てくれると思った」
「生徒会管理の児童コードでメッセージ寄越せば、そりゃ来る。こんなことしたら調査委員もすぐに来るぞ」
「でも、アイは彼らより早かった」
たちまちアイは変な顔になりかけ、帽子のつばをつまんで階段を登った。イトの隣に立つ。静かの海の三割ほどが見渡せた。
「心地いいでしょう」
ぽこぽことしたクレーターのそれぞれに溜まる落窪集落の家々、夕日が反射して水滴のよう。灰色のコップについた結露。頭上の瑞々しい星にはやはりいい対比だった。
「この標高は、ちょうど地球と同じくらいの大気濃度なんだ。心地いいでしょ? お気に入りなの」
言われてみれば肺が軽い。少し気を抜くや、はちきれるほどの息を吸ってしまいそうだ。
確かにこれなら、イトの好きな歌もやりやすそう。
なんて、普段通りのくだらない雑談がつい脳裏をよぎってアイは嫌になってしまった。そんなことをしている余裕はもう無いのだ。
「……あのあと、一体どこに居たんだよ、イト」
イトは何もしゃべらない。
「協約が締結できなくて、全協議も立ち行かなくなって……」
薄い大気。突風がさやかに抜ける。
「公約違反を叫ぶサークルが探し回っても、僕が走り回っても、育館にイトはもう居なかった」
何も語らない。
「……二週間経ったんだよ、イト。ようやく会えた。いったい今までどこにいたんだ?」
イトの眼球とアイの眼球とは、惹きつけあっていた。まばたき、ひとつ。イトはアイの底に「加害性の欠如」をみた。まばたき、ふたつ。アイはイトの底に「感じるもの」はあったが、見えるものはなかった。
いつものことだ。
「……息がしやすくて、なのに大気は薄いから音は街まで響かないの」
ようやく口をひらく。
「絶好の歌唱ステージだし……絶好の密談場所だね、ここは」
そう微笑むと、イトは一歩、ステップしてアイと距離をとり、手をさしのべて、歌う。
——Will you join in our crusade?
Who will be strong and stand with me
「……どういう意味だよ」
「あの日、ボクを誘ってくれたのはアイだった。だから、今度はボクがアイを誘うの」
胸に手をあてて、
——Beyond the barricade
Is there a world you long to see
「……それを教えてくれたのはアイだよ。だから——ボクと来てよ。いっしょに自由になろう?」
具体的なことを頑なに語らない。しかしアイには、この二週間でイトに何があったかは分からずとも、今、何がしたいのかはわかった。
「僕を試してるのか?」
それは選挙活動の日々、営業をするイトの声色を心の底から聞いていたからわかったことだった。
「そうとも」
アイはイトの目の奥をみた。すると、もうひとつわかった。
「どうして? どうしてそんなに自信満々に、こんなことができるんだ?」
「だってアイさあ!」
アイのことを、思うがままにできるという自信。
「……ボクのこと、大好きじゃん」
あからさまに微笑んでいた。
息をのんでしまった。すると、普段より薄い大気なので一気に大量に吸ってしまい、蒸せそうになった。くるしい。咳き込みそうになる。抑え込む。
対話をして、穏当な解決策を探って、また僕がイトを救うんだ。——駆け登ってきたのはそう決意したから。一方的な考えだった。結果、立ちはだかったのは思いがけない逆流。考えてきたことが全部無為になる。何を言えばいいかわからなくなる。何をしたいのかわからなくなる。——少し提案にゆらぐ自分がいるのに、また当惑して、飽和する沈黙。
「……行かないよ、僕は」
ふと口をついたそれに、両者ともに脳が止まった。
「ずっとイトと走ってきた。うまくいく時も、いかない時も僕らは一緒だった」
自分を制御できない。
「イトは僕をよく頼ってくれた。それで僕はさ、なんとなく、イトのお父さん代わりをしているような感じさえしていたんだ。……だけど、いつもそうだ。『離れる』時に限っては、決して僕には何も頼らず、自分の心だけでパニクって、いつのまにか第二宇宙速度だ。今回だってそう」
およそ静止した宇宙に地球が浮いている。音も、まったく聞こえないようだった。
「この二週間でイトに何があったか知らない。イトが何を企んでいるのかもわからない」
脳がクールダウンするだけ、心がヒートアップする。
「わからせたくないんだろう。……信頼していないんだろう。本当は、僕を——」
心を開いていないんだろう、とでも言えばよかった。
しかし一方通行を素直に認めるのが怖かった。
「見下しているんだろう」
あ。しまった。
違うんだ。やばい。ちがう。やめてくれ。続かないでくれ。
——後悔は先に立たなかった。
「そう」
何かに気づいた顔だった。
イトはここにきて、初めてアイに拒絶されることで、自分の感情を整理する必要に迫られた。無理矢理、自分に「素直に」なる作業。
申し訳なくなる。
自分を嫌いでいなければいけないような気がする。素直に、無垢に。それが目的化していた。
一人でいようと決意する。
「じゃあ、もうボクは死んだっていうことにしてくれないかな」
目が逸れゆく。その表情から。
○
講演は終盤に差しかかったようだった。スライドが次第に雑になる。
「協約が未成立のまま提案者は行方不明となりました。二週間後、友人を呼び出した提案者は、彼の目の前で死にました。高台で大気が薄く、ふらついて、そのまま崖から落下したといいます」
そろそろ作戦決行のタイミングのようだ。
「なにぶんクレーター期のことですから、落窪集落の外にはまともなインフラがなく、確認に赴くまでに時間がかかりました。すると、遺体はみつからなかった。何者かに回収されたものと思われます」
私はカバンに右手を伸ばした。
「目撃した友人の証言によると、何らかの企みに誘うために高台に呼び出したということのようでした。行方不明となっていた二週間のうちに、何者かと接触し、何らかの逃走計画を練っていたようです。おおかた地球の諜報機関か何かでしょう。しかし未だ真相は判然としません」
「いいや」
私は声を出した。特に意識せずとも、大きな大きな声が出た。
「死んでないですよ、イトは」
カバンに右手を入れたまま、すっと立ち上がる。
アチメは眉ひとつ動かさないままでこちらを見ていた。極力反応をしないようにするつもりらしく、視線が不自然なまでに動かない。しかし口は開かなかった。
「イトはあのとき、絶望したんです。この社会は変えられない。声を上げることも、正攻法をすることすら無駄。——それは外部の力を借りる良い免罪符でした」
右手に握ったものをとり出し、カバンを捨て、左手でフードを脱ぐ。そして、私はクロスボウをアチメめがけて構えた。
ホログラフィボード越しに睨みつける。
「だから、あなたは死ぬんです」
その様は峻別だった。女は綺麗な悲鳴をあげ、男はどよめいて、蜘蛛の子が如く散る。私とアチメとの間には、綺麗な道が開いた。
「たしかにイトが接触したのは地球の諜報機関です。回収されて、向こうで証人保護プログラムを受けて、地球社会に溶け込みました」
語りながら詰め寄る。私はもはや空席となったパイプ椅子を軽々と蹴飛ばしてアチメの方へと歩く。
「地球社会もまた厳しいもので、現実に打ちのめされる日々。それでもやっぱり月面よりはマシだと思ったそうです。それで、イトはちょっとした『結社』を作りました。月面で習ったやり方を参考にしながら」
ホログラフィボードを超えた。標的の顔を観察する。
アチメは冷静沈着を装っていた。逃げもしなければ反撃の構えも見せない。それはたしかにセオリー通り。しかし、重心を下に落としたりとか呼吸を整えたりといったことがおざなりなのを私は見抜いていた。
「その目的は——月面社団自決秩序の壊滅と、新国家の建設です」
的を外さないほど近く、しかしクロスボウを奪われないほど遠い位置。私はアチメの脳天に矢を突きつける。
「……では、これは宣戦布告なのですか?」
アチメがふりしぼった声を出す。
「笑止! 国家のない月面にそんなもの要りますか。これは広報活動ですよ。あなたはこのパニック状態の観衆のなか、歪んだ秩序の象徴として死ぬんです」
観衆のうちのひとり、私からみて左側面。ガタイの比較的いい男が、うああ! と声をあげて飛びかかる。殴る。私は微動だにしない。一瞥もくれてやらず、私は空いた左手で彼の頭をつかんだ。そのまま投げるようにして後ろにつきとばす。椅子のパイプが打ちあうカランコロンという音と、彼のうめき声だけが私には聞こえた。クロスボウのねらいは、依然としてアチメの脳天を突いている。
「……あなたは地球の人ですね。なるほど。『国家』から支援でも受けているようだ」
「いいや? 支援してくれているのは企業たちです。『社団』同士の交渉にしかノウハウがないものでね。それに、いただいた支援は金、武器、ここに来るまでの宇宙船のチャーターくらいのもの。人員はイトの自前ですよ。私を含めて」
ぞろぞろと、私と同じ服を着た地球系実力員たちが会場に侵入し、出入り口を封鎖する。今まさにあがる開戦の狼煙を、逃げることなく直視させるために。
「そうですか……」
意外な光景だった。アチメの顔が少しゆるまる。
「なんです、その顔は」
「いいえ、少し残念なんですよ。あなたは地球の人だ。じゃあ、イトさんではないんですね」
さらに、ほんの少しだけ、清々しさが見える。まるで、本心を晒しても大丈夫な場に逃げ込んだ大学生。少し、いらつく。私は照準を逸らさぬまま、クロスボウを近づける。
からん、ころん。ハイリールの音。
「——ダメだよ。距離を詰めないで?」
誰よりも透き通った声が出入り口の方からした。振り向かずとも、私にはその姿が見える。
「あとの問答はボクが引き受けるから。君は確実に、正確に殺せるようにしていてね」
今、私のすぐ後ろの方に、イトがいる。
「ボクがイトです。お初にお目に。月の六倍の重力圏で生活をする地球人が、今、ここに三個分隊ほど集結しています。……ああ月の感覚ではピンときませんか。二十六名つれてきました。あなたは抵抗できません」
「そのようだな」アチメは顔を変えずに応える。
「聡明なる月面市民の眼前で、白日のもとに晒そうじゃないですか。あなたの語る、社団自決秩序の真相を」
「良いだろう。私も一度、新地球回帰主義者と対談してみたかった。しかしその前に……」
アチメの目線が落ちた先、会場最前列の席。パソコンを閉じて、す、っと男が立ち上がった。こちらの方を向く。
彼の顔に私は見覚えがなかったし、それを受けてのイトのリアクションも見られなかった。
「……アイ」
私は驚いて、一瞬、集中力が散った。すると瞬時にアイは距離を詰めてきて、どん、と下から私の右手を押し上げる。どうやらクロスボウを跳ね飛ばそうとしたようだった。しかし月面人と地球人の力差、それは叶わない。そう悟るや、アイは私の手首をぎゅっとつかんだ。照準は完全に逸れる。すかさずアチメは教壇から逃げようとする。が、イトが直々にコートから拳銃を取り出し撃鉄を起こす。がちん、という音と同時に私は大きく宙にジャンプ。アイの頭上をかすめ、背中に着地。たまらずアイは手を離した。そのままバックステップで距離をとり、照準をアイのひたいに向ける。私の視界にイトも入る。その頃には、イトもアチメにねらいを定めていた。
四名、全員が静止。
「体、鍛えたんだね。アイ」
膝を折り、手をついてしゃがむアイの頭を、私のクロスボウはとらえている。
「僕は『男らしさ』に降伏することにしたんだ。イト」
背中越しにイトに返事。すると、またむくりと立ち上がる。ねらいが逸れる。急に動かれると頭では当たらなさそうだ。胴体をねらい直す。
しかし、視線は私を向いているが、どうやら意識は完全に背後のイトに注がれている。
話に聞いていた通り、表情に出やすい人だ。
今にも泣きそうにゆがんだ唇が、ひらく。
——I did not live until today
How can I live when we are pared
「あと一日」と私の中のジャンバルジャンが言った。
——Tomorrow You'll be worlds away
And yet with you, my world has started
イトの表情を諮る。長年の苦労で凍りついたポーカーフェイスは、まだ全てを隠していた。
「だって……アイさあ、ボクのこと大好きじゃん」
いつかの日のセリフをイトは再生する。
そして続きをようやく言語化した。
「でも、それだけだったんだ」
イトはアチメに銃口を向けていなければならない。アイの方に目配せだにできない。横顔だけが証明に照らされて、私からは少し、ポーカーフェイスが溶けかけているようにも見える。
イトはアイの挑発に乗ることにした。
——One more day all on my own
するとすぐさま、ごほごほ、とイトは咳き込んでしまう。長年の地球生活で、月の縮質大気の重さを忘れていたらしい。しかしその分、大きな声が出た。全ての酸素がその音圧に揺れた。
アイが応じる。
——Will we ever meet again?
イトのポーカーフェイスはいよいよ崩れゆく。
——One more day with him not caring とイト。
剥き出しの唇。発音の応報。
——I was born to be with you とアイ。
——What a life I might have known とイト。
——And I swear I will be true とアイ。
——But!!! イトの声が荒む。
「……あの場所に立つボクを、見なかったよね」
●
あの日、イトが遁走するのを見過ごしたあと、駆けつけた副議長にアイは嘘の証言をした。なんてこった、と顔を見合わせたあと、とりあえず二人でトンネルを戻っていった。
これで良かったのだろうか。
「ボクは死んだっていうことにしてくれないかな」
自分の願いとイトの願い。両方を叶えるには、素直にイトの要求をのむのが確かに最善だった。そのはずなのに、漠然と不満だ。
志はあるのに何もできない。その意味でアイとイトは同じだった。本当はなにか行動を起こしたい。妄想もした。しかし男らしくもなく、陰気で、故に人脈など無い。実行力も無い。自己効力感は希薄。夢を自分で叶えるなど非合理的に思えた。星に願うかのようだった。
イトとの出会いは、アイの需要と見事に合致した。
アイ自身の「願い」のために合致した。
今、なぜ自分は釈然としていないのだろうか。生徒会活動を離れ、普通の学生生活を取り戻しつつある今、あの日の後ろ姿がいつまでも再生する。アイはずっと考えていた。
ある日、学政協議会の議長に呼び出された。内心怯えながら、しかし、何かあればもうそれまで、程度に考えてアイは招待に応じた。
「……別に私たちは、君たちを抑圧したいんじゃない」
アチメの対応は意外にも優しかった。
「私の母は、束縛のひどい人だった。だから私にとって、子供としての権利と義務……つまり、人間として生をうけて以来の権利と義務は、私にとって『であるもの』だったのだ」
「であるもの……?」
「『持っていて当たり前になっている』もののことだ。地球時代の政治学のテキストから拾った言葉だがね。……それじゃダメなんだよ。権利とは、契約だ。決して『であるもの』であってはならない。それは一方的でズルい」
アチメの政治学的知識と個人的経験と将来に対する熱意は、アイを釈然とさせるのに十分なものだった。
もう、これでいいや。そう思った。
「ときに、私は来期から研究プロジェクトをもつことになった。この学館の学胞共政について専門的に扱う『研究室』を立ち上げる。君、私の助手にならんか」
重たくて面倒臭くて、叶えられもしない「願い」なんて、忘れてしまおう。
◯
「そうだよ!」
歌の流れをぶったぎってアイが叫び返す。
「僕は結局、僕のことしか見ていなかった。だからあのとき、『お互いにとって最善』であるはずの選択に釈然としなかったんだ。それは『僕にとって最善』ではないから! 『僕の願い』ではないからだ!」
驚いた顔になってしまっている。イトらしくない。
「でも、もういいんだ。織姫はもういっちまった」
「……うん。そうだね。そうだったね」
その声が今にも消え入りそうで、焦りが、私の気道を噴流した。耐えられなかった。
大声を出す。
——One more day before the storm!
死ぬほどイトに見せられた映画だ。全て覚えている。
急に会話に割り込まれて、アイはわかりやすく動転した。
——At the barricades of freedom
マリウス役の彼がこちら側ではなくて、呼応してくれないのだけが残念だ。
——When our ranks begin to form
さあ、Do you stay; and do you dare? 私は最後のセリフを、あえてイトに向けて放った。
——Will you take your place with me!?
すると、やはりイトは応じてくれるのである。
——……The time is now, the day is here——
「もう一日!!」
その意気。イトを奮い立たせようと私は叫んだ。
すると、すう、と息を吸う音が聞こえる。
アチメの方からだった。
——One day more to revolution
We will nip it in the bud!
We'll be ready for these schoolboys
They will wet themselves with blood
「もう一日!!」
次はアチメが叫ぶ。すると、あのいかにもコミュ力の高そうなウザい観客の一人が、図々しい顔をさらして群衆の中から前に出て応える。
——Watch 'em run amuck
Catch 'em as they fall
Never know your luck
When there's a free for all
ああ、あいつが副議長か。オールスターじゃないか。
——Here's a little dip
There a little touch
Most of them are goners
So they won't miss much!
「あたらしい日には!!」
イトが続く詞を投げ、主導権を取り戻す。
私は「自由の旗を高く掲げよ」とアンサンブルに回る。
——Every man will be a king
「ほんものの主権がある」
——There's a new world for the winning
「来たるべき世界がね」
そして私たちは声を合わせた。
——Do you hear the people sing?
しん。——即、静寂。全員の意識がアイに差す。
アイとイトとの間にはあの日の高台があった。この際、これまでの連歌じみた出来事は全て、アイが本当の意味で自決するまでの物語と化す。
ゆっくりと、アイは口をひらいた。
「……僕の居場所はここだ。僕は、君と戦うよ」
——アイの真意はわからなかった。「君と争う」のか、「君と共闘する」なのか、釈然としない。
しかしこの際のアイの情緒だけは推しはかられた。
「もう、一日……?」
問いかける両目から、地球の六分の一しかない引力のために、涙が落ちていたから。
イトの情緒を推しはかることは出来ない。
しかし、少なくとも聴覚は鈍ったようだった。外で待機している実力員たちが、かすかなうめき声をあげ、急に静かになった。
気づいたのは私だけのようだった。
「これ、時間稼ぎですよ!」
叫んで、私はアイに向けていたクロスボウを捨て、足元に転がる椅子をドアに運び始める。
どうやら室内にいた数名の実働員は私の言わんとすることに気づいたようで、一人また一人と手伝ってくれる。
「何……してるの?」
イトの声。私は目をくれず答える。
「異常を察知されたんでしょう。外で待機していた連中が全員やられました。今にここは取り囲まれます。……人質をとって立て篭もるんですよ! かつて地球の革命家たちがそうしていたように」
「どうして……」
要領を得なかったらしい。「ですからあ!」と振り向いてイトを視界に入れる。
異様な光景があった。
いつのまにか距離をつめていたアチメが、イトを抱きしめていた。
「本当に、申し訳ないことをしてきた……。いちど話がしたい、と言ったのには一片の嘘もないんだ」
彼らに飛びかかろうとした。すると、右から金属音。見るや、私が捨てたクロスボウを奪ったアイが、私に狙いを定めている。トリガーに指をかけていた。
「動いたら撃つ」
「ちっ、素人が」
私が毒づくのも埒外。アチメの独白は続く。
「私は本当に、子供の幸福というのを願っていたのだ。そして、それは着実は成長が保障されることによってのみもたらされる。いつだったかな。私の部屋の空調を、母に切られたことがあった。けれども、事前に空調の操作方法を勉強していたから、凍えずに済んだ。……自由も、権利も、義務も、自分で勝ち取るものだ。しかし、その仕組みを正しく動かすには——『であるもの』を『するもの』に変えるには、学ばなければならない。成長しなければならない」
壁に何かを打ちつける、どん、どんという音がドームに響く。バリケードを築いた扉側からではない。全方位から彼らは突入する気だった。
「理解してくれとは言わない。理解するとも言わない。しかし、イトさん、君の略歴を調べさせてもらった。母親と死別しているそうじゃないか」
「やめて」聞いたこともない声をイトは出した。
「君は、失ってしまった『母性』を求められる何か、誰かを探していた。それが、地球だったんじゃないか」
「やめろ!」
イトはアチメを突き放す。銃を向ける。手は震えている。アチメの呼吸は整っていた。目が揺れる。まぶたがふるえる。気が滅入る。
「そして……アイでもあった」
荒んだ息は肺に縮質大気をからめ、過酸素に脳が重い。ととのえる、下を見る。立っていないかのよう。
イトの手は、銃を放り投げてしまった。
「……ボクにはもう、説得力が無いけどさ。オトナの暴力ってやつだよ、それは」
とぼとぼと溢れる言葉を彼は拾う。
「その通りだ。生徒の成長を保障するため、私は生徒の自由を制限した。たった今も、君の人格を決めつけるようなことを言った。私のような大人は、子供を守るためという名目で様々な暴力をふるう。それは当然のことではない。『であるもの』ではない。それは、自分の保身と子供の幸福とを天秤にかけた折衷案、次善の策、緊急避難だ。必ず誰かがやらねばならない。しかし、その誰かは贖罪し続けねばならない」
ゆっくりとした動きで、捨てられた拳銃の方へアチメは歩く。私は見ているしかない。
「だから私は研究した! 気づいたよ。これは月だろうが地球だろうが関係なく存在する、この社会の根本的な欠陥だ。だから……ただ、私は君に、謝ることしかできない」
アチメはさりげなく、イトの捨てた拳銃を拾う。
「そんな気持ちで、その立場にいて、あんな仕事をしていて……あなたは辛くはないの」
「辛いとも。ああ辛いとも! しかし、私は耐えることにした。そう、自決したのだ!」
そう言い捨てると、アチメは自分の頭に銃口を密着させた。
「自分で自分を抑圧するなんてバカみたいだよなあ。それもこれで終わり。今日は、人生の中で唯一本心を曝け出しても大丈夫な瞬間だった! 楽しかったよ。さあ、自己決定権を行使する。人質になどなるものか」
瞬間、全ての壁が外部から、ひしゃげて崩壊した。繊維の裂ける音が断熱材にくぐもって響く。縮質大気に粒子が舞い上がって可燃。
まずい。二つの危険性を察知して、私はアチメめがけて跳ねようとした。
しゅる、という音がとどく。次いで、いつのまにか私は地面に倒れていた。じわじわと熱く、続いて痛みが脇腹に広がる。私はアイの方をみた。
「行かせない……!」
煙幕に閉じゆく視界、二人が最後の問答をしていた。
「……撃てませんよね。月面の人間が粉塵爆発を知らないわけがない」
イトがアチメに詰め寄る。
「どうだかな。人質になるくらいならここで全員巻き込むのも悪くはない」
「できますか? あなたに」
うっすら、人影が横っ腹からイトに飛びかかろうとするのが見えた。すると、ふたたびしゅるんという音がして、人影が消えた。
「な……んで……」
撃たれたのは副議長だった。議長が撃てないのを、一番よく知る人間だった。
撃ったのはアイだった。
「イトはやる! 撃つよあいつは! みんな死ぬ! だったら、やり残したことやろうじゃないか!」
立ち上がって、ひるがえって突入した学館実力員にクロスボウを向けて、もう一度歌った。
「イト! 僕は、君と戦うよ!」
イトは答えない。一瞥もくれない。くれてやった瞬間、全てが崩れてしまうのだろう。粉塵は猛り、実力員は静か。ただイトの背中一つが小宇宙の瓦解を伝えていた。
なんとも身勝手で、残酷な一言のみをアイに送る。
「……ごめんね」
そのままアチメの眼前に立った。
「大人はいつもそう。勝手に先に死んで全て都合よく終わらせたがる。勝ちっぱなしはないでしょう。……どうやら、勝者は誰でもない。全員が間違っていたみたいだ」
「そうかな。たとえ今すぐここに隕石が落ちて、全員いっぺんに生まれ変わっても、僕らはきっと同じことをしよう。それは間違っているのかな」
それがアイの最後の台詞。
「……さて。この衝突は、一体どんなクレーターを残すでしょうね」
「これではもう、ただのテロだろう」
「もしここが地球だったら、でしょう?」
学館の実力員が急いで私をで引きずって、できるだけ遠ざかろうとする。間に合うはずもない。
「まったく、このホッブズ主義者が」
「さようなら、月面ナショナリスト」
薄まりゆく世界の真ん中、イトはアチメの右手ごと拳銃を握り、宇宙にまっすぐ突き上げた。みひらいた。息を、めいっぱい吸った。
フィナーレだ。
——It is the future that they brings
When tomorrow comes!
閃光。
白光が一閃。スローモーションの世界の中で、次いで、じわりじわりと黄金の筋が広がる。次第にそれはオレンジ色になり、大きな炎となった。それは私の目に届く。それは私の鼻腔に届く。喉が焼ける。肺が蒸せる。耳がひしゃげる。鼓膜にふれる。
はらりドクダミがさやめいた。
音は聞こえなかった。
地球の子 / 紀政諮