Wikipediaの進化と社会的影響に見るChatGPTの今後に対する考察
現在ChatGPTが社会を変えるということで話題になっているようである。2月から海外ではChatGPTplusといった課金サービスにより混雑時にも優先的にアクセスができる等のプレミアムが受けれるようだ。
動画を見ているとChatGPTに登録してログインし、チャットスタイルで質問をすると、世の中のありとあらゆる情報を自動学習したAIコンピューターがあくまでも現在の最適解を提供してくれるようである。それも特別サービスを利用しなければ無料で・・・
現在はミクロの部分ではMicrosoft Excelの利用の仕方、恐らくマクロ計算の組み方等を瞬時に無償で答えてくれるといった利用の仕方がyoutubeで紹介されているが、今後は個人的な好きな人への告白の仕方やはたまた行政の政策までもが質問すればありとあらゆる世界の過去の例やデータベース等の情報からAIなりの回答(提案?)をしてくれるようである。
Wikipediaのサービス提供が始まったころ、「無償で閲覧できる」「誰もが書き込める」といった点において皆さん胡散臭さを感じたのではないか。「無料なんて信用できない」「誰が監修しているの」「どうせデマだらけの信用できないものにしかならないだろう」と。しかし現在ではどうだろう。何か調べたいことがあればスマホで語彙検索し、先ずはWikipediaで確認をしている人が多いのではないか。あれほどの情報を辞典や人物一覧で書籍化すれば、大量の紙、印刷工場のスペースやインク、流通における輸送、校正での人件費等、途方もないコストがかかる。
Wikipediaはこのような効果と効率だけでなく、もう一つは社会的権威や信用といったものを大きく変えきたのではないか。私が若いころは友達との会話で「それ本当のことなの?誰から聞いた」と言うと「新聞に書いてあったよ」や「テレビで言ってたもん」という会話がよく飛び交っていた。しかし、今テレビ番組で放送されている事実が世の中の真実とどのくらいの人が認めるのか。新聞でさえ社説等に書いてあることを引用として絶対的真実の裏付けとして認知されているのだろうか。ある意味意見として捉えられているのではないか?新聞やテレビの情報よりもWikipediaの情報は信頼性が低いと社会的には位置づけられているのか。社会の権威が大きく変化していることを示す一例ではないか。
ChatGPTの存在を考えると、そのうち医者にかかる際も事前に症状等でAIに相談して受診するようになれば、患者にAIと異なる診断や処方をする場合は、納得する説明をしなければならなくなる。もちろんAIは世界の診療データベースや学界のガイドラインも考慮した判断をするのであろう。また、生活で困った人が弁護士に相談する前にAIに相談して訪れる際には、国内の判例やすべての法律を鑑みたうえでの回答を確認してくるので、よりシビアな受け答えに迫られるようになる。
もちろん医療でも外科的なテクニックはAIによる代替性はすぐすぐにはないと思われるし、脈や呼吸音での判断や顔色を見るといったことは経験値によるもので、AIで対応することはすぐには難しいであろう。弁護士も実際に履行する契約書を作成したり、行政への届出の莫大な資料の作成等はなかなか代替性のハードルは高いと思われる。
そうは言っても重要なことはクライアントの本当に困っている問題を感情的なものも含め解決してあげることができるかである。クライアントが表出していない、または認識さえしていない要因を気づいてあげて、AIに質問した以上の重要な問いを専門家がクライアントに投げかけてあげることが必要になってくるのではないか。その為には今以上にクライアントの訴えに十分耳を傾け、表情を読み取り、何よりも信頼関係を作れる能力が重要になってくるのでは・・・
どこかで識者が「今後の社会では問題可決能力よりも、問題設定能力が重要になる」と言っていたなあ。また落合陽一氏がシンギュラリティ(AIと人間の存在の特異的転換点?)が2040年から2025年に早まったと言っていたが、意外にそうなのかもしれない。