「もうすぐ50歳」ビビります。#1
50歳って何ですか?\今の私ができるまで/
大変だ!恐怖の50歳が迫ってきた!
楽しみ!なんて余裕な顔して言っているキラキラ星人をインスタなんかで見掛けるけれど、私には1ミリも楽しみなんかじゃない。
できれば、ずっと32歳くらいで留まっていたかった。
ファッション業界で仕事をする私は、間も無く50歳には見えないらしい。
年齢不詳でミステリアス。お客様からは、なぜか「バツ2?」とよく訊かれる。
名誉なことなのか、不名誉なことなのかわからないけれど、何だか魅力的な響きなので、ミステリアスを一生貫こうと思っている。
ついこの間32歳になったばかりだと言うのに、いつの間にやら年齢だけは随分と勝手に大人になってしまっている。
もう殆ど20年も経っているじゃないか!私は凍結保存でもされていたのだろうか。
お若いあなたにはわからないかもしれないが、それくらい光の速さで50歳はやってくるから、注意しておいた方がいい。
こんなに早く歳を取るのならば、もっともっと毎日を大事に過ごせばよかったと思ったりもする。
けれど、私なりにやりたいことを全部やってきたし、毎日を一生懸命生きてきたわけだから、良しとしよう。
そしてこれからも、好きなことに全力を注ぐつもり。
我慢強さと負けず嫌いが売り。
どれくらい我慢強いかと言うと、子供が飛び出る直前まで自宅で陣痛を我慢してしまい、慌ててタクシーで病院に行き、着いて30分で産み落としたくらい。しかも長男、次男、二人とも。
そこまで我慢しなくていいと言われた。×2回。
恐らく見た目からは想像できないくらい体育会系体質。
白か黒かハッキリさせたい性格。
中身は男でおじさんなんだと思う。
そんな私に付き合う夫や息子たちは大変だろうと思う。
50歳を節目に、大好きな仕事に区切りを付けようと思っている。
これまでの人生を振り返ってみたので、せっかくだからしたためてみることにした。なかなか面白い人生を歩んできたなと思う。
*
これまでの私の人生には、結構いろんなことが起きたと思う。
初めての社会人デビューは「世界のソニー」だった。
ワクワクしながら仕事をしたが、団塊ジュニアの私たち世代はとにかく人数が多くて、会社の組織の中の私の存在は噂通り、本当にちっぽけな歯車の一つに過ぎないことを痛感し、つまらないなと思った。
どうせなら英語力をもっと鍛えてカッコ良くバリバリ仕事したいと思い、留学することに決めて辞めた。
社会人4年目の頃だった。
アメリカの大学に行くだろうとの予想に反して、選んだ先はイギリスの大学のマネジメントスクールだった。
ビバリーヒルズ高校白書が大好きだった私はあんなにLA大好き!NY大好き!アメリカ大好き!だったくせに、イギリスかぶれするのに大して時間はかからなかった。
ルームメイトのジョンとシャーロットに触発され、イギリス人のサーカズムを覚え、知らず知らずのうちに北部の田舎臭い訛りを身に付けた。
ロンドンへ買い物に出掛けると、その田舎臭さ丸出しの北訛りが、イギリス人にとてもウケた。
よく日本人は外国でモテると言われるけれど、実際にすごくモテた。
イギリス人、スペイン人、スイス人、ポルトガル人、日本人、大学の講師に至るまで、男に困ることはなかった。
それなのに、本気で好きになったイギリス人にだけは振り向いてもらえなかった。まあ、そんなものよね。
てっきりイギリス人と結婚するのだろうとの期待を裏切り、最後に出会ったのは日本人、4歳年下の今の夫。
あの時イギリス人とかスペイン人とか選んでいたら、異国でもっと違う人生を送っていのだろうなと時々思う。
モテた理由の一つは、私がお酒にとても強いこと。
日課のようにパブへ通い、ジョンとシャーロットに教え込まれたエールと呼ばれる濃いビールをパイントグラスで頼み、ビリヤードをしながら平気で3〜4杯は飲んだ。
アングロサクソンのフレームのしっかりした体格を持ったイギリス人に比べたら、遥かに華奢で小さくて幼く見える黒髪のヤマトナデシコが、ビールを男前に飲む姿に皆ギャップ萌えしたらしい。
多分酔っ払いの勘違いなんだけど。
そんな日本人女性は初めてだ!と口々に言われた。
イギリス人の女友達にもよく飲みに誘われた。
当時お洒落なバーが流行っており、ワインにウォッカやテキーラを飲みに行ったものだ。
日本へ一時帰国する前日になると、解放感いっぱいでイギリス人の女友達と夜の街へ繰り出した。泥酔で翌朝の飛行機を逃し、帰国日が一日遅れた経験が1度でなく、2度もある。
我ながらこのやらかしっぷりは、なかなかのものだなと思う。
それでもお酒ばかり飲んでいた訳ではなく、平日は夜中まで大量の宿題をこなしていた。これまでの人生で、あんなに勉強したことはないと思う。
睡眠は3〜4時間、それでもいつも元気だったのは、若さの所為か。
イギリスの生活は本当に楽しかった。
イギリスは日本と同じく右ハンドルで運転しやすい。
まとまったお休みがあると、レンタカーで小旅行したものだ。
私はオートマ限定免許だから、レンタカーの種類が少なく、いつも新しめの白いプジョーだった。初夏の湖水地方がお気に入りだった。
ユーロスターでパリやイタリアにも秒で行かれる。
留学して2年目の夏休みは、日本から来る親友とミラノ駅で待ち合わせしてフィレンツェに行った。
大好きな親友とミラノで落ち合うなんて、とてもロマンチックだった。
お別れの日には、愛する彼氏とのお別れか?と思うほどワンワン抱き合って泣いた。
イギリスにはスキー場がないから、冬はスイスにスキーをしに行った。
その年は雪崩が多くて、公共交通機関が止まってしまったから、グリンデルワルドへの代替輸送がヘリコプターだった。
思わぬところでヘリコプターに乗る経験ができた。
当時、高校の同級生の男友達がスイスにひと月くらい滞在していた。
スキーインストラクターをしていた彼はスパルタで、私をユングフラウヨッホやらクライネシャイデックやらに連れて行き、とにかく滑らされた。
ここは日本の山ではない。スイスの山だ。半泣きで滑り降りて来る頃にはもう夕方で、辺りは暗くなり始める。スイスに来てまで、まるで部活。
優雅さの欠片もなかった。
それはそれで楽しい思い出だけれど。
イギリスの食事情は、お気に入りのインドカレー屋さんがいくつかあった。火を吹きそうな辛さのビンダルーカレーが好きだった。
小腹が空くと、モルトビネガーをたっぷりかけたフィッシュアンドチップスや、チップスと呼ばれるフレンチフライにもビネガーをたっぷり掛けてよく食べた。
あの味は日本では再現できないと思う。
そして、こんな食生活で太らないわけがない。
優に10キロは太っていたと思う。
大学では、ビジネスマネジメントを選択したためか、クラスメイトはあちこちの国からの社会人留学生が多かった。
中でも、頭のキレるスイス人バンカーが手厳しかった。彼と張り合える英語力と自信が欲しいと思いながら、毎晩必死で勉強した。
毎回、自分の甘さを思い知らされながら、いつも必死で食らい付いていったけれど、相手にさえされなかった。悔しかったからさらに勉強した。
一緒に暮らしていたジョンとシャーロットはカップルで、大学では二人とも語学を選択している先輩と後輩。ジョンはPh.dを取っていた。
私たちはそれぞれのコースを終え、ジョンとシャーロットはひと足お先に実家に帰って行った。
私は、大家さんとのさまざまな手続きを済ませ、オックスファムに不要な家具や家電、小物に至るまで引き取ってもらい、部屋をを引き払った。
最後の数日、イギリスで生まれて初めての一人暮らしを経験した。
珍しく暑いくらいに晴れた日に、隅々まで掃除をしながら聴いていた曲は、今でもすぐに頭の中で再生することができる。
私のイギリス生活は終わった。