幸せへの道〜ヨーガ心理学で知るわたし〜⑤純粋意識としての私
何十年と続く人生物語を演じている私と、その人生映画を観ている側の純粋意識の私。この2重性を理解できますでしょうか?
いきなり理解は難しいかもしれませんが、自分という存在を熟考していくことで少しずつ理解を深めていけると思います。
私が、この身体ならば、死んだら終わり、という世界観になり
それはそれはなんとも虚しい気持ちになりませんか?
では、私たちの本質が純粋意識で、死んでも死なないのだとしたら
どんな気持ちになりますでしょうか?
私の失った大事な人たちも、実は失っていなかったと感じられたなら。
これから先も、たくさんの別れがあるのだけれど、その大切な人も実は肉体がなくなっただけで本質は失われていないのだとしたら、どんな気持ちになるでしょうか。
日本人ならは、その感覚はなんとなく分かるのではないでしょうか。
お盆には故人を迎えて、定期的にお墓参りをしたりして、先祖を大切にする文化が日本には根付いています。
私がなんとなく「純粋意識の私」にピンときたのは、体験的にこの純粋意識の私を感じた事があったからです。
もちろん、その頃は「純粋意識」などの知識はありませんでした。
私は音楽をしているのですが、ヨーガの先生を目指す前、ライブ中にその純粋意識の私を感じたのでした。全く自分の感情とは切り離された、静観している私。その自分の存在を知ったのです。
その時の衝撃は今でも覚えています。
何が起こっているのか?この私はなんなのか?
どういうこと?と混乱しました。
でも、この事は人に言えず、言っても何か気がふれたのか?おかしな事を言っているな、疲れていたんじゃない?と相手にされませんでした。
確かに、一回の感覚であれば、気のせいかもしれないのです。
もう一度「再現」されるならば、信憑性があります。
それを確かめるためにも、ヨーガに瞑想に没頭したのでした。
この体験がヨーガに導いてくれたと言っても過言ではありません。
私とは何か?が分からなくなったのです。
もう一人いるよね?となったのですから。
そのような経験、私もあるよ〜、という方もいるでしょう。子供の時、もう一人の自分が私を観ているのを感じていた人もいるかもしれません。我が子も小さな時はそんなことを話してくれました。
なにも特別な体験ではないのでしょう。私たちの本質は純粋意識なのですから。
ただ、このような体験から「覚醒者」と名乗り、活動している人もいらっしゃいます。
私は、苦しみから解放されたわけではなかったのです。
ここが、解放へのスタート段階と言っていいと思います。
それは、何故なのか?次回お話いたします。