潜りながら弾くピアニスト
海の中の話ではないのです。陸上のコンサートホールの話です。
とあるピアノコンサートを聴きにいった時の事です。
全体的にそれまで有名な方のコンサートに行くことが多かったのだけれど、縁があってとある若手ピアニストのコンサートを聴きに行くことになりました。
経歴を見ると、然るべきところで音楽の学位を修めた方のようでした。
たまにいくコンサートの座席はいつも大抵後ろのほうなので、弾き手が遠くのほうに小さく見えます。本人が弾くのを見るというより、ホールという楽器を聞きにいくみたいな感じが多いです。
その時は自由席だったのを幸いに、思いっきり前のほうでピアノを聴くのもたまにはよいかと思い、その時練習していた曲でペダルがどうしても思うように動かせなかったのもあって、すごく前のピアニストの足がよく見える位置に座りました。
しばらく足を見ていたのですが、段々別の音が気になるようになり、足よりそちらに気をとられるようになっていきました。
息の音。
ピアニストの足を見ながら、なんだろうこの妙な音と思っていました。
不慣れなその音は、最初客席に何かの病を患った、息苦しい方が聴きにきているのかと想像しました。苦しみながらも演奏会にきている人がいるのでしょうか。
だからその音が聞こえるのかと思っていたのですが、ふと演奏者本人の顔を見ると、息の音の主がわかりました。演奏家本人の息の音でした。
コンサートのプログラムが進み、知ってる曲が最後のほう数曲でてきたあたり、
ショパンのop.53「英雄」、サビみたいな部分を弾く直前に、鼻で息をものすごく吸い込むのがわかりました。ほんとに「ものすごく」吸い込むのです。これから深い海に潜り込む、っていうくらいの吸い込み方です。やっと息の音が曲と連動してることがわかった瞬間でした。
確かにそこからは多分フォルテシモっぽい音量で弾くところなのですが。
よく全身を使って弾くという表現を目にするけれど、指、腕、肩、背中、足くらいは想像つくけど+息づかいがあるとは全く思っていなかったです。
全身使って弾くってこういうことなんだと思って、すごく面白かったのです。息を吸い込んだ後はその息で潜りながら海の中をスイスイ泳いでるように感じました。
フルートやクラリネットなんかはそもそも音を出すのに息を使うので、はっきり息遣いも録音されているのをよく耳にするのですが、ピアノがこんなに呼吸を伴って演奏されるものだっていうのを、数メートル先で本当に見て、大変驚きました。
演奏を近くで見てる人は、いつもこうした息遣いまで聞いているのでしょうか。
ピアノのコンサートは遠くからホール全体の音に耳をすますのも良いけれど、近くで生身の人間の動きや音を観察するのもまた違った趣きがあり楽しいものです。