涙くん、さよなら
「人間の死に方」という本を読んでいる。(感想は読了後に)
「医者だった父の、多くを望まない最期」という副題がついており、誰もが向き合うであろう死と、老化に伴う様々な身体の不調について、家族の目線から、医師の目線から述べられている。
読みながら身近な人を思い浮かべていた。
人様に迷惑をかけたくないと頑なに通院しようとしなかった祖父。その祖父の看病を何年もしていて、祖父を追うように翌年亡くなった祖母。
認知症を発症してコロナ禍でお見舞いにも行けることなく、他界した義父。ピンピンコロリで死にたいからと人間ドッグに行きたがらない叔母さん。
父は 60 近くまで白髪がほとんどなく、定年後もゴルフにテニスに精力的に運動し、体重が増えると喜ぶくらい肥満と縁がなかった。
そんな父も、痩せ型なのは相変わらずだが、ここ数年さすがに白髪が増えてきて、定年後も途切れる事なく受けてきた仕事を、週何日も通勤できないと断っていた。
コロナ禍で、罹患を恐れ(そして徹底的な対策が実ったのかなんと今現在罹患していないが)、家に閉じこもりがちだった父母にとって、孫の保育園お迎えは唯一の「外に出る口実」であり、保育園の先生や他のパパママさんとも挨拶がてら話せる機会であった。
※母はコミュ力に秀でており、私よりも保育園の「ママ友」が多かった。
今でも母は高価な買い物もするが、孫のイベントに参加する時や、孫と一緒に過ごす時間が何より楽しそうだ。
著名人の訃報も、いつしか父母より歳下も増えてきた。いつ、身近になるかわからないんだと身震いする。
読みながら、「涙くんさよなら」の歌が脳内再生された。
私はこの歌の歌詞とメロディーが大好きで、「もしもピアノが弾けたなら」と同率一位で、自分の中の替え歌定番曲になっている。
子供が成長するということは、自分が歳を重ねるということで、親が老いるということだ。
頭ではわかっていても心がついていけないことがある。
普段はきっと、日常のなにげないタスクに忙殺されているフリをして目を背けているだけなんだ。
本を読み進めながら、せめて身近な人の最期には、お別れをする時間をもてるように、そしてそれ自体は周囲の勝手な想いかもしれないので、本人の要望に沿った最期を迎えられるようにと、意味を為さないかもしれなくても願わずにはいられない。
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