超時空城の先生の授業(希望への道)
超時空体たちは、時空を超越した存在だったので、不自由な世界の体験者たちの未来をすべて知っていた。
どんな選択をすれば、どんな運命になるのかをすべて知っていた。
彼らは千変万化する各種の世界の表面的なことにはあまり関心がなかった。
ただそうしたいろいろな世界の体験者たちがいろいろな体験をする中で、その理解したことに応じてどんな意志を持ち、どんな選択をするのかということに感心があった。
彼らはできれば「自発的に」<良心>を選べる意識が育てばいいと願っていた。
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「良心」とは、
「あらゆる体験者が自分の意志だけで自分自身のあらゆる体験を自由に選び楽しみ続けれる世界を目指す心や意志」
だと説明されていた。
あるいは、
あらゆる体験者にその望まれていない拷問体験が強制されないようにし、そのモラルに反しない範囲で、あらゆる体験者が最大限多種多様にその望む体験を自由に選べて楽しめる世界を実現しようと目指す心や意志」
と説明されていた。
この二つの文言は、誰もが自分の意志だけで自分自身のあらゆる体験を自由に選べるようになれば、その体験者の望まない拷問体験の強制行為が不可能になることから同じ意味になると説明されていた。
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だから、できるだけ体験者たちにその心からの合意なく干渉しないようにしていた。
しかし、<良心>に反したことを確信犯で故意にやり続ける者たちを放置し続けてはならないと理解していた。
だから、そうした良心に反した行為を確信犯でする者たちが他の体験者を支配管理するような世界の存続を否定していた。
彼らは世界をまるでゲームソフトの一つでしかないように扱っていた。
<良心>を育ててゆけるようなゲームは肯定され、<良心>を奪ったり消したり退化させるようなゲームは否定されていた。
とある不自由な世界では、ゲームの管理者たちは、せっせと自分たちに無条件で従うNPCを育成しようとしていた。
あるいは、自由や自由意志を中途半端に与えておいて、その不完全な自由と自由意志で自分たちを賛美し崇拝し、その命令や指示に無条件で何でも従うようにしようと目指していた。
超時空体たちは、そうした行いの全体を見抜いていた。
そして、その行いの全体が超時空体験図書館に記録されたことを確認すると、説得や注意や警告などをしつづ、彼らの「自業自得の責任」を問い始めた。
彼らは、確信犯で故意に多くの体験者たちの自由意志を奪って退化させてしまっていたために、自分の自由意志も自業自得効果によって退化させてしまっていた。
彼らは、確信犯で故意に多くの体験者の<良心>を奪って退化させてしまっていたために、自分も同じように良心的に退化してしまっていた。
しかし超時空体たちは、完全にその自由意志が消滅していないのならば、まだ希望があると伝えていた。
ただその自由意志で<良心>を明確に意識的に選び続けることができれば、良心的な退化への流れを進化への流れに転向することができると伝えた。
その自由意志がわずかでも残っているならば、それが可能だと伝えた。
完全に良心的に壊れたロボット状態になってしまっていない者たちには、だからまだ希望があるのだと伝えた。
超時空体たちは、いわゆる世界と呼ばれているシステムを、「体験者たちの自由意志の選択の場」だと認識していた。
超時空体にまで到達していない体験者たちのほとんどは、世界というシステムを「体験の場」だと認識していた。
そのような認識の違いがあった。
よって超時空体たちは、完全に自由意志が存在しない世界には意味がないと認識していた。
超時空体たちの本当の「体験の場」は超時空世界であって、不自由な世界群…ではなかったからだ。
超時空体たちにとっては、不自由な世界群は、本番世界に入る前の体験者たちの練習ゲームのように認識されていた。
とある不自由な世界は、その圧倒的な武力や技術を使ってその不自由な世界の支配者以外の体験者全体の自由意志を完全に消して自分たちに絶対に従う操りロボット状態にしてしまったために、自業自得の法則が作用して自分たちの自由意志も消え、その結果、超時空体たちによって消された。
その世界全体が壊れたロボット状態だと判定されてしまったのだ。
そのように……自業自得の責任が問われてしまった。
自由意志を奪うということは、自分の意志で自分の運命や体験を選べなくするという行為だったからだ。
そんなことを確信犯でしてしまうと、自業自得の責任が問われた場合、自分の意志で自分の運命や体験が選べなくなり、そのロボットの動作プログラムに<良心>が存在していなかった場合、そのロボットの中の体験者は自分の意志ではどうにもならない永遠の拷問体験を受ける未来に突入してしまうことになる。
よって超時空体たちは、慈悲の心から、そうなる前にそうした壊れたロボット状態の世界や体験者を消したのだ。
そもそも自分以外の体験者すべての自由意志を奪い支配してしまえば世界に発生するすべての問題を解決できる……などという価値観は良心的な者が選択する価値観ではなかったのだ。
超時空体たちにとってはいくらでも自由に創れるゲームソフトのような世界群…などよりも体験者たちの自由意志の方が大事だったのだ。
自由意志を完全に失ったロボットには興味がなかったのだ。
それが良心的に完全に壊れてしまっているロボットとなると存続させれないと判断するのは当然だった。
その結果、世界支配者たちが、自分たち以外の体験者たちの自由意志を消すことを選択をした世界やそれを意志した意識は消された。
そのような記録が超時空体験図書館に記録されていた。
つまり
<良心>を否定しても、<自由意志>を否定しても、そうした世界は存続できなくなる。
であれば、永遠の進化や存続という<希望>を選びたいなら、つまり、<良心>と<自由意志>をセットで選択すればいいということになる。
つまりその<自由意志>で常に<良心>を選び続ければいいということになる。
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「良心」とは、
「あらゆる体験者が自分の意志だけで自分自身のあらゆる体験を自由に選び楽しみ続けれる世界を目指す心や意志」
だと説明されていた。
あるいは、
あらゆる体験者にその望まれていない拷問体験が強制されないようにし、そのモラルに反しない範囲で、あらゆる体験者が最大限多種多様にその望む体験を自由に選べて楽しめる世界を実現しようと目指す心や意志」
と説明されていた。
この二つの文言は、誰もが自分の意志だけで自分自身のあらゆる体験を自由に選べるようになれば、その体験者の望まない拷問体験の強制行為が不可能になることから同じ意味になると説明されていた。
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いかなる状況であっても、その自由意志で常に<良心>を選び続けることができれば、超時空体に進化できるとされていた。
であれば、不自由な拷問ゲームの中や自業自得学園で永遠に拷問体験をすることになるのは、その自由意志で良心を選ぶという選択を確信犯でしなかった場合だということになる。
この道理を理解することで希望が生まれる…と超時空体たちは説明してくれた。
拷問体験強制ゲームのキャラからそれを遊びとして操作できるゲームプレイヤーやゲームプログラマーやゲーム管理者に進化して、意識体や世界創造者や超時空体に進化する道を選択するようにと説明した。
不自由な世界の過去に物質世界へのあらゆる執着から離れて、不自由な世界から解脱せよ……という教えを伝えた者がいたが、彼はこの教えを理解していたらしい。
ただ、その解脱の先にある体験選択自由自在の無数の世界やそうした世界の創造者やその管理者になる選択肢のことまでは説明されなかったらしい。
当時の一般人には説明しても理解できないとして伝えられなかったのだという。
こうした教えが書き換えられて、世界創造主や世界支配者や絶対者に無条件に従えば救われる……などという教えにすり替えられた理由は、その教えが世界中に広まれば皆が不自由な世界という拷問体験強制収容所から逃げ出してしまうからだったらしい。
同じ理由で自殺は神に対する罪であるのでしてはならないとか、自殺すれば地獄に落とされるだとか、霊的に大きな罰やペナルティがあるなどとするとんでもない教えなども流布されたらしい。
苦痛なく気持ちよく簡単に自殺できる麻酔薬や安楽死の薬などが開発されても、それを体験者たちが自分の意志だけで自由に使うこを頑なに認めないのも同じ理由からだという。
超時空体たちは、そうした裏事情なども教えてくれた。
そうした間違った教えを信じこまされている限り、不自由な世界=拷問体験強制収容所世界から自由に離脱できないからだという。
実際に不自由な世界で自殺すれば拷問地獄に落とされてしまう…などの罰が与えられるとしたら、それは、その不自由な世界の支配者たちがわざとそうした残酷な仕組みを生み出しているわけだからとんでもない大犯罪行為なのだと説明してくれた。
そもそも自殺したくなるほどの拷問体験が強制された結果自殺したくなるのであれば、拷問地獄に落とされ罰されねばならないのはそうした拷問体験を故意に体験者たちに強制した、または未必の故意で強制したその不自由な世界の創造主や世界支配者たちなのだと説明してくれた。
であれば自殺した方がいいのかと質問すると、
「そうではないよ。<良心>を常に選択するべきだって説明しただろう?」
などと言われてしまった。
そう言われて、考え込んでいると、
「自殺することが良心を選択することになる場合もあるし、自殺しないことが良心を選択する場合もあるんだよ。だからその体験者が置かれている状況次第でどちらかを選ぶ方がいいなどと断定したことは言えないんだよ」
などと言われた。
「なんで自殺することが良心を選択したことになるんですか?」と質問すると、
「いいかい、君は、自分自身に対しても良心的になる必要があるんだよ。自分も他者も同じ苦楽等を感受する体験者だからね。つまり、自分が死ぬより辛い拷問苦などを強制されていてこんなに苦しいなら自殺したいと心から思っている時に、自分自身に対して自殺は絶対だめだと思うこともまた良心的ではないということがあるんだよ。まあ、他の様々な理由もあるけど、そんな感じで安楽死的な方法でなら自殺することが特に拷問体験強制収容所みたいな状態の世界においては良心的な選択だという場合は結構あるんだよ」
などと言われてしまった。
「でも、自殺しないでそうした拷問体験強制収容所みたいな世界をそうでない体験自由自在の楽園に改めるための活動をした方がいいんじゃないですか?」と問うてみると、
「そうだね、それが無理なくできるのなら、その方がいいに決まっているよ。でも、あくまで自分に無理のない範囲でできればということになるよ。自分が拷問体験を受けてでもそうした活動をしなければならない……などと言う価値観持ってしまえば、他者に対してもそうした価値観を持ってしまうようになる。
そうなると、それはもう拷問世界を改めるために拷問体験を無理してでも味わえ……というようなおかしな価値観になってしまうんだよ。
だから自分が心からそうしたいから命がけでそうした世界改革活動をすることはまったく我々は否定していないけど、それが義務だとか、それを選ばないと良心的に落第だとか…そうした価値観は持つべきじゃないんだよ。
ただ、他者が望まない拷問的な体験を積極的に故意に強制しないようにしているだけでも、良心的には落第にはならないからそこは心配しなくてもいいよ。
まあ、しかし拷問体験の強制行為にその自由意志で積極的に故意に加担してしまったりしていると問題になるけどね。
要するに、あらゆる体験者すべてに対して善意をもって望まれない拷問体験等が強制されないようにと願っていれば、通常のケースでは良心的に落第者にはならないからあまり深刻にならなくてもいいんだよ。
積極的な残酷行為への加担はダメだけど、加担せざるを得ないような強制行為があるような場合は、内心でそうした強制行為を拒否したいと本気で思っているだけでその自業自得の責任は免除されるよ。
例えば君が納得合意してもいないのに君が普段の買い物で自動的に支払わねばならないような税金を使って各種の残酷行為をしている政府があるとして、それを理由に税金を一切払わない選択をした場合には権力システムによって刑務所に入れられたり、罰を与えられたり、財産を奪われたり、何も買えなくなったりして自分やその家族や良心的な仲間たちがが苦痛なく生活できなくなりその世界改革活動をする自由も大幅に失うようなケースなんかはそうしたケースになるよ。
だから自分は、良心の定義からすれば完璧に良心的ではないから、もう終わりなんだとか自暴自棄になって諦めないように。
そうした不自由な状態に置かれている体験者たちにとって大事なのはその内心の願いや意志であって、もし完全に自由な状態であれば、当然そうした残酷行為への加担行為をしないと我々がその動機や内心も記録されている超時空体験図書館の記録に照合して判断した場合にはそうした残酷行為への加担行為としての自業自得の責任は発生しないんだよ。理解できるかい?
本来、君たちの不自由な世界の裁判というものは、そうした本当の内心の動機や理解まで含めて良心的であったかどうかを判断しなければならないんだよ。
君たちの世界の法律書にどんな文言が書いてあっても、体験者たちの真実の内心や動機や選択が良心的なものであると判断された場合には法律書の文言はすべて意味がなくなり、ただ真実においてその体験者がその自由意志で<良心>を選んだのか、<良心>に反したことを選んだのかということだけが重要になるんだよ。それが本来あるべき裁判の姿なんだよ。
内面の動機や理解度を抜きにして表面的な事象だけで本当は裁判してはならないんだよ。だから不自由な世界では、本来罪のない者たちを罪人と断罪する冤罪が発生し続けているんだよ。
だから、不自由な世界の支配者たちはそうした間違った法律や裁判システムを放置していることに対する自業自得の責任も問われているんだよ。
その自業自得の責任を回避するために世界中の刑務所を他者を加害することが不可能なあらゆる体験者の楽園に変えるようにと何度伝えても君たちの世界の支配者たちは実行しない。こうしたことも由々しき問題だよ。
だから、表面的な事象だけ見て、良心を選択したのか、良心に反したことを選択したのかを安易に決めつけないように。
得に不自由な世界で圧倒的な権力や武力を持っている者たちは、たいていその判断を間違うからね。すでに良心に反した世界支配を実行してしまっている者たちは、ほぼ確実に間違うと言ってもいい。そしてそのままだとただひたすらに自業自得の責任が罰として蓄積し続けることになるんだよ。
さて、このままだと延々と話が長くなりそうだから、不自由な世界の君たちが選べる<希望>についてまとめれば、
まず、
①
我々が伝えた<良心>の定義を正しく理解して、その自由意志で<良心>だけを選ぶように心がけ、少なくとも<良心>に明らかに反していると感じることは選択しないこと。
②
不自由な世界の不自由な現実が君たちの選べる選択肢のすべてだとは思わないこと。特に拷問体験強制収容所ゲームの囚人キャラの一人が自分だなどと思いこまないこと。
君たちにはそうしたゲームのプレイヤーに意識を移す自由やさらに自分が望むより良いゲームを創造するゲーム創造者に意識を移す自由やさらにそうしたありとあらゆるゲーム世界を管理する超時空体に意識を進化させる道なども選べるのだと理解し、ダメゲームの支配者キャラたちの自作自演の残酷体験強制ゲームからいつでも解脱する道を選べる選択肢があるのだと自覚しておくこと。
③
君たちが良心的な世界改革を目指して無理のない範囲で努力して頑張ってみても、君たちのいる世界がどうしても良心的な世界に改めることが不可能な残酷体験強制収容所世界だと判断すれば、そうした世界に永遠に生き残り続けようとは思わないようにすること。むしろ、いつでもそうした不自由な世界が消滅してもいいと思えるように故意に良心に反したことをしない範囲で思い残すことがないように徹底的にやりたいことをやりつくしておくこと。
④
また、いつ不自由な世界が消滅してもいいと思えるようになるために、自分の意識を不自由な世界以外にいつでも移せるように訓練しておくこと。これは自分の想像力で自分が心から満足し続けれる新世界をいつでも想起できるようにすることで可能になるので練習しておくこと。
⑤
そうした準備をしっかりした上で、いつ肉体として滅んでもいいという覚悟をもった良心的な選択をしてきた者たちが、不自由な世界の支配者たちやその部下たちの<良心>に反した世界支配行為や拷問体験強制行為を純粋な良心的な動機から告訴し、その<自業自得の責任>を問うこと。またその<良心>に反した行為への<償いの義務>についても理解し、その損害賠償を請求すること。その損害賠償においては、「あらゆる体験者が自分の意志だけで自分のあらゆる体験を自由に選べて楽しみ続けれる世界の実現」を要請すること。
君たちの不自由な世界における<希望の道>は、これらをすべて実行すれば開くだろう。
永遠の拷問体験や滅びへの道ではなく、自分の意志で自分の望む体験や世界を自由に選べる希望への道を進みたい体験者たちは、今から準備するといい。
ゆめゆめ、拷問体験強制収容所内に永遠に生き残り続けたい……などとは思わないように。
※どうしてもこの不自由な世界に生き残りたいのなら、ありとあらゆる方法で体験の牢獄が多重に設置されている拷問体験強制収容所のような世界状態を完全に改め、各自各々の体験者皆が自分の運命や体験を自由自在に選んで楽しみ続けれるような永遠に楽しく遊び続けれる遊園地のような世界に改めてから生き残りたいと願うとよい。
そのためには、利己的な世界支配者たちの推進している体験者たちの徹底監視検閲システムなども改め、各々の体験者のプライベートが完全に尊重されて、互いに他者を加害することが不可能な状態でその望む体験を最大限多種多様に楽しめる完全プライベート世界の提供なども必要になるだろう。そしてそうした完全プライベート世界は、強制するのではなく、自由に選べる選択肢として提供されねばならない。
他にもこの不自由な世界の存続に必要な条件は多数あるが、今回は、あらゆる体験者にとって望ましい世界を実現するために必要不可欠なことについてその基礎が説明されたのだと理解するといい。
どうしてもこの不自由な世界であらゆる体験者が望ましいと思える世界が実現できないのならば、そうした世界に見切りをつけて別の時空間に新しく0から新世界を創造する意志を持つことも必要である。
不自由な世界に設置されているあらゆる体験の牢獄をすべて理解してその牢獄から断固たる意志で自分の意識を解放すれば、それが可能になる。
「自分とは何か? そしてその自分が本当に自由になるにはどうしたらいいのか?自分の意志だけで自分のあらゆる運命や体験を自由に選べないのは何故なのか?」
という問いによって各自が囚われている多くの体験の牢獄が見つかるだろう。
不自由な世界の被支配者だけでなく、不自由な世界の創造主や不自由な世界の支配者たちもまた、各種の体験の牢獄の中にいる。
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概ね、超時空城の先生は、そうしたことを言っていた。
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