モノローグでモノクロームな世界 第一部 第三章 四
四、
マドカの白いスーツケースを前に、僕はそれを開けるべきか否かでかれこれ一時間近く悩んでいた。
勝手に人の秘密を暴くようで気が引ける。それに、あのカミシロマトビの思い通りに行動させられているようで、正直な所、癪に障る。だが、それ以上に僕はマドカの事が知りたかった。それに、僕には彼女の死を、彼女の事を知る人に伝える義務がある。それが、彼女の死を止められなかった自分の罪を軽くしたいだけだったとしても。
ツツジが言っていた『大切な人を失う哀しみ』。それは僕にも覚えのある感情だ。この世界の何処かで、彼女が死んだことを知らずに、いつかの僕のように彼女の帰りを心待ちにしている人がいるかもしれない。僕には彼女の最後を知る者として、終わりを告げる役目がある。気が重い作業だが、誰かがそれをやらなければならない。来ない人を待ち続けるのは、果てしなく寂しい拷問のような時間なのだから。
職業柄、僕は仕事の傍ら、データベースでマドカの情報を検索した。だが、幾ら探っても、彼女と思しき人物の情報は、過去十年以内にこの国への入国者リストに無かった。原則、入国審査無しに外から入る事は出来ない。そうなると残された選択肢は、元々この国の人間であった、あるいは、入国審査無しで入れる唯一の方法。サカイ経由の密入国。
恐らく、後者が正解だろう。
マドカが死んでから一ヶ月。
遺体を回収した衛生委員がまず初めにする事は、遺体の身元特定だ。その後、故人の私物は全て一度、衛生委員会へと没収され、審査を経て遺族へと戻される。衛生委員会の持っているデータならば、例え偽名を使っていたとしても、数日程でその人間の素性、経歴から家族構成まで簡単に割り出せるだろう。だが、この一ヶ月間、衛生委員がマドカの私物を引き取りに来た気配はない。恐らく彼らも未だマドカの身元が特定できていないということだろう。
データが無い人間。戸籍が無い人間。
その噂を一度だけ聞いたことがある。
どこの国にも属さない。まるで泡沫の虫のように発生しては誰にも知られずに消えていく人間がいると。
マドカもそんな人生だったのだろうか。
ならば、何故、僕に会いに来た?
考えれば考える程、思考の波に囚われていく。
今のところ、僕の手元に残された手がかりは、このスーツケースだけだ。
工具箱からペンチを取り出す。銀色に鈍く光るそれは、お祖父ちゃんが若いころ使っていた工具だ。これさえあれば、何でも作れるんだ。そう言ってお祖父ちゃんは、国から支給された家具や電子機器を使いやすいように改造していった。
幼い僕には、それは魔法のようだった。お祖父ちゃんの手の中で、くるくると変わっていく物たち。生まれ変わったそれらはまるで、生き物のように息を吹き返していくように見えた。眠りから覚めるように、次々と目覚めていく家具や電子機器に囲まれて僕は育った。
残念ながら僕はお祖父ちゃん程、器用ではなかったけれど、それでも錠前を壊すことぐらいはできる。
マドカのスーツケースがもしも電子キータイプの物だったならば、僕には開けることはできなかっただろう。幸いと言うべきか、今時滅多に見る事の無い、錠前を僕は工具を駆使して壊すと、ゆっくりとスーツケースを開いていく。マドカの秘密を眠りから覚ますために。
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