アラベスクもしくはトロイメライ 5
花園風花との思い出の中で、一番印象的だったのは、やはりあの図書室での一幕だろう。彼女は放課後、よく遅くまで図書室に居た。
私も普段から多くの書を読むが、彼女は思えば私以上に読書家だった。いや、彼女のあれを読書家と一言で括るのは間違っているように思える。そう、どちらかと言えば、活字中毒と言った方がしっくりくるだろう。それも、文字通りの。
私の読書スタイルは、国内外を問わず推理小説を偏愛、偶に気が向いた時に美術書を手に取るというスタイルだ。一方、花園風花の場合は、ジャンルも作品も作者も全く関係なく、手当たり次第、目の前にある本を手に取り、文字を咀嚼していくスタイル。
だから、知らない人から見れば、私達が仲良く、手を取り合い放課後を一緒に過ごしているように見えた光景も、実際の所は、偶々同じ場所に同じ時間居ただけという、偶然的要素の方が強かった。事実、一言もお互い言葉を交わさない日もあったし、気づけばいつの間にか彼女の姿を見失っている日もあった。
画集や美術書関連の書物が置かれたその一角は、今流行りの雑誌や小説が置かれた人気コーナーと異なり、滅多に人が寄り付かないため、少し黴臭いことを除けば、私にとって理想的な空間だった。クラスメイトと下らない雑談をしている時も、美術室で白いキャンバスを色で埋め尽くしている時も、いつだってどこか違和感を覚えてしまう私が唯一見つけた居場所。それが、この図書室の黴臭い奥の一角だった。
背の高い窓から射し込むオレンジ色の光に映し出されていく物語の世界。下校時刻まで、私は読みたい本を一冊決めると、美術書を背にその世界へと身を投げ出す。時にそれらは、残酷に世界を抉り出し、時にそれらは、儚い夢を私に見せてくれる。どんなに現実が味気ない灰色一色に見えたとしても、この中でならば、何度も私は立ち上がり、駆け出し、飛び立つことができた。
そして、いつの頃からか、私は頭の中で自ら物語を編み出す遊びを覚えていった。
秘密の空間と秘密の遊び。
それは決して、誰にも知られてはいけない儀式。
秘密が秘密で無くなったならば、もうそれには意味がない。
そう、信じていた。
それなのに。
「風花。」
廊下の向こう端、私だけの秘密の場所に座る彼女が、呼びかけに反応して顔をあげる。その顔を見た瞬間、私は彼女に秘密がばれたことを悟った。
神様はいつだって意地悪だ。泣き出したいのはこちらの方なのに。何か、一言言ってやろうと思ったのに。栗色の髪の隙間から見える、今にも泣きだしそうなその顔に、結局、何も言えないまま、口を閉ざす。
次の言葉を見失ったままの私とそんな私を無言で見つめる彼女との間を、沈黙が彩っていく。どの位、私達はそうしてお互いを見つめていたのだろう。不思議な程、静まりかえったその空間を破ったのは、震えながら話す風花の声だった。
「何、読んでるのって聞いてくれないの?砂奈ちゃんは、いつも聞かないよね。私が読んでるものも、私が考えていることも、いつも。
そんなに、興味ない、私の事?」
そう尋ねる風花の顔は、酷く寂し気に歪んでいて、私は質問の意味よりも、そんな表情を彼女にさせてしまった事に対して謝っていた。
「別にいいよ、責めてるわけじゃないし。……通り過ぎていくことなんて、いつもの事だから。」
「風花、何、読んでるの?」
あからさまな程、取り繕うよう、そんな質問しかできない自分に嫌気がさしてくる。だが、風花はそんな私の気持ちすら見透かしたように小さく笑いかけると、開いていた大判の本を閉じ、表紙を私に見えるように向けてくれた。
『世界名作シリーズ5 カラヴァッジョ』
「カラヴァッジョ?風花、好きなの?」
重そうなその本に書かれた書名に少なからず驚いた私は、風花の元へと歩みながら、問い返す。
カラヴァッジョ。本名、ミケランジェロ・ミリージ・ダ・カラヴァッジョ。言わずと知れたバロック期の有名なイタリア画家。犯罪者となり、逃亡中に亡くなった最期は憐れだが、その作品の数々は名作として後世に残されている。彼の光を画に取り入れた劇的な手法は、後の西洋美術史界に大きな影響を与え、今なお人気の芸術家として、日本でも展覧会を開けば、多くの話題を浚う。とはいえ、風花がカラヴァッジョを好きだった事にも驚いたし、何よりも活字中毒の彼女がこの知の宝庫で、活字でない物を手にしている事が驚きだった。
カラヴァッジョが好きか問うた私の質問に答えることなく、風花はぱらぱらと画集を捲り続ける。彼女の手によってページが操られる度に、埃が宙を舞い、窓から射し込んだオレンジの光に反射してきらきらと輝く。それは、まるで彼女によってかけられた魔法のようで、私はこの時、風花ならば、私の秘密の遊びを共有してもいいと思っていた。
「この少年、何を見ていると思う?」
そう話す彼女が指を指すページを上から覗き込む。カラヴァッジョ作と言われる、゛ナルキッソス “。ギリシャ神話に登場する自分に恋した少年を題材にした画は、他の作家の同題材の画と比べ、構図や光の当て方が特徴的で、故に、ナルキッソスの内面を忠実に表現した作品として名高い。当然、作品の意図からしても、先程の風花の質問に対する答えは水面に映る彼、ナルキッソス自身あるいは、その内面となる筈だ。
そう答えた私に風花は頷きながらも、画集に視線を落とすとぽつりと呟いた。
「彼が見ているのは、本当に水面に映っている自分なのかな?砂奈ちゃんは思ったことない?鏡に映っている自分が本当に、本物の自分なのか、それとも偽物の皮を被った別人なのか、って。
でも、もし、彼が水面に映る彼自身に恋をしているのなら、それは幸せなことだよね。」
こうして虚像だとしても、自分に触れて、何よりも自己をこんなにも盲目的に愛せるんだから。
悲しそうな声でそう私に話した風花が、ゲームと称してお互いの秘密を暴きあう悪趣味な提案をしたのは、その翌日のことだった。
今思えば、あの時、彼女とちゃんと向き合っていれば、あの悪趣味な提案の意図も解ったのかもしれないし、もしかしたら彼女の結末も、そして私達の結末も変えることができたのかもしれない。だが、今更、過去は変えることはできないのだ。どんなに悔やんでも、何も無かったことにはできない。
風花が私に持ち掛けたゲームの後、私が彼女を避けたのは、私の秘密を他人に暴かれたくない。いや、暴かれたその秘密をあの子に知られたくない、その保身からの行動に過ぎない。結局のところ、ただの自己保身。そして、風花はそんな私の行為をただ受け入れた。私と風花の奇妙な関係は、一方で親密に関わり合いを保ちながら、他方では無関係さを装うというアンバランスなバランスを保っていた。そして、それはこの図書室の一角でも続けられることとなる。
オレンジ色の光に足下のブルーの絨毯が侵食されていく。補色関係の彼らは混ざり合えば、濁色へと変わっていく。まるで、私達のように。
「一番、ずるくて醜いのは誰?」
風花と一緒に過ごした、いつかの夕暮れを想いながら、発した声はオレンジ色の光の中で霧散していった。
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