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祖父の余命宣告を受けた父の動揺~多死社会における死との向き合い方~

祖父の膵臓癌が再発。年齢的にも、体力的にも、治療以外の選択肢を医師から提案されたとのこと。余命宣告を受けて、父は動揺している様子を、母からの電話でなんとなく感じました。今までは、父が看護師である私にいろいろと聞いてくることがあったのに、今回の電話から父の声が聞こえることはありませんでした。

私は、看護師であるため、今までに多くの人の死と向き合ってきました。だから、死に対してのある意味耐性があります。同様に、今の80代くらいの方々も、親と同居していたり、親の介護や療養の世話をがっつりしてきた年代で、老いだったり死だったりを間近で見てきています。

しかし、核家族化が進み、グローバル社会のなかにおいて、家族は離ればなれとなってしまいました。核家族化もグローバル化もそれ自体は悪くはないのですが、家族との物質的な距離感は、こういった死を迎えようとするときの弊害になってしまいます。

医療の発展に伴い、人は病院で亡くなることが増えて、人の死は、どこか別世界の出来事のように思える人も多いのではないでしょうか。家族が離れたことで、親の老いや病を受け止めきれないまま、死が近づいてきて、その「人の死」が一体全体どういったものなのか、それを知らない世代は、人の死が怖くて怖くて仕方がなく、父のように動揺が大きくなってしまいます。

もちろん、誰だって、動揺するでしょう。しかし、知らないことは恐怖と不安を助長させてしまいます。

2025年問題があるように、これから、多くの死を迎えることになるでしょう。介護保険が始まり、在宅サービスが充実してきて、病院のベッドは、自宅や施設のベッドへと移行しています。つまり、病院死は減っていき、死は再び身近になってきています。

そして、多様化の時代において、私たちの選択肢はどんどん増えていっています。それが故に、自分たちにとって、何が正解なのか、迷いに迷う人がたくさんいるのです。

では、どうしたらよいのでしょうか。
私の見解はこうです。

死と向き合う前に、まずは、自分の生き様を今一度見つめ直そうということです。

自分の死に様は、自分が大切な人が死を迎えるときに大きく影響すると言われています。どういうことかというと、例えば自分の子どもが死を迎えようとするときに、親がどう死んでいったのか、そのときの光景が思い出されてしまう、ということ。自分自身が、「なんでこんな人生なんだ、こんなはずではなかった、嫌だ嫌だ」と嘆きながら死んでいくと、それがそのまま自分の大切な人の記憶に焼き付いてしまい、死を意識したときにそれが思い出されてしまうのです。それくらい、大切な人の死は影響力があります。嫌じゃないですか?自分の子どもが死ぬときに、そんな「嫌だ」って思いながらさいごを迎えるなんて。
また、死を知らないと、恐怖と不安になります。だから、死に様をちゃんと子どもに知ってもらうということも大事になってきます。

だから、死に様ってめちゃくちゃ大事なのです。
老後や余命をいかに充実させられるのか、自分らしく生きられるのか、死に様は生き様です。ここがすごく大事になってきます。だから、大切な人のためにも、まずは、自分の生き様を見つめ直すのです。

「あぁ、楽しくて充実した、いい人生だった」と思いながら死んでいきたいではないですか。そしたら、自分の後に死んでいく大切な人も、「あぁいい人生だった」と思いながら息を引き取っていく。その連鎖が生まれると、これからの世の中もきっといい世の中になる、そう思いませんか。

そういう意識でいると、今回の父のように、自分の親など、大切な人が死を迎えようとしているときも、そういった視点で考えられるようになり、ポジティブな言動が取れるようになってきます。大切な人がどうすれば、さいごのそのときまで、その人らしく充実した日々を送れるのか、そのために、自分にできることは何なのか、どういったサポート体制を整えるのか、そう考えられるようになるのです。

大切な人の死と向き合うのはすごくすごくハードなことですが、その向き合えた分だけ、自分の死に対しても恐怖や不安が減っていきます。そして、この限られた時間を、いかにどう生きていくのか。そこを考えさせられる良い機会となっていくでしょう。

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