青い蝶の飛ぶところ
世界は信じられないほど美しく、
神様は時に残酷だ。
すべてを与え、
すべてを奪うー
否、奪われたように感じさせる。
「3年前に夫を亡くして、
私の人生は変わったの。」
落ち着いて話す彼女の声に
全神経を傾けながら、
私はなんとも情けない顔をしていた。
世界を共に旅した相棒を、
永久の愛を誓った恋人を、
すべてを共にした魂の片割れを、
急に喪うことの哀しみは、
到底想像のつくものではなく。
ちょうど私と彼が世界を旅するように、
彼女は彼と、人生そのものを冒険していて。
旅も、ビジネスも、全部一緒のパートナー。
そんな相手がいなくなってしまうことは、
すこし想像しただけで
恐ろしくて、
寂しくて、
心がぎゅうと締め付けられて、
苦しくなった。
「幸せを見つけなければならなかった。
晴れた空に、透きとおった海に、たまに出る虹に。
そういう小さなものに、
気づかなかった身の周りのものに、
幸せを見出して、
一日を生きるしかない。
それを繰り返しているの。
この一日を、この瞬間を、
今あるものを抱きしめて、生きるの。」
彼女が静かに続けた言葉は
強く、美しく、かなしくて、
私の心に突き刺さったまま
ずっと抜けずにいる。
隣にあった燈火が、ぬくもりが、
急に感じられなくなったら。
繋いでいた手が、支えていた肩が、
消えてしまったら。
「いつかこんなことしてみたいね」
「今度は彼処に行きたいな」
そんな「いつか」が来なくなったら。
真暗闇のなかで茫然とするだろうか。
哀しみの海に沈んでいくだろうか。
身の回りの美しさを、優しさを、
手繰り寄せて抱きかかえ、
じっと蹲って暖をとることができるだろうか。
立ち上がり、歩き出し、
自分と同じようにしゃがみこんだ人を見つけた時に、
手を差し伸べることができるだろうか。
悲しみすら知らないような顔をして
意気揚々とすすむあの子に、
心からの拍手を送ることができるだろうか。
テーブルの上でたおやかに波打つ木目を指でなぞりながら、
最後のが一番難しいかもしれないと考えていたら、
彼女が一番好きな曲を紹介してくれた。
Mariposa Azul
スペイン語で青い蝶
娘が亡くなったお父さんに向けて歌ったというその歌は、
透き通っていて明るく、
儚いようで力強く、
深遠なのに軽やかで、
青い蝶が大きな羽を広げ、
優雅に舞うかのようだった。
だれかをひたすらに愛おしく、
もう一度、一目でも会いたいと願うこと。
そんな大きな感情の前では、
憐れみなんて容易いもので、
だれかを羨む小さな嫉妬心など
芽生える隙もないのかもしれない。
西陽で紅く滲んだ空を
眺める彼女の横顔は穏やかで、
青い蝶が飛んでいるのがみえるようだった。
「人はいつ死んでしまうか
だれにもわからないんだから」
気がつけば曲は終わっていて、
彼女の声は深い青色の中に溶け込んでいき、
静かな夜がはじまった。
青い蝶はどこかへ行ってしまったのだろうか。
私にも見えたらよかったのに。
目を凝らせど
暗くなった庭に蝶の姿は見えなくて、
私はゆっくりと息を吐いた。
「星がみえるよ」
彼女につられて席を立ち、
開け放たれた掃き出し窓から
庭へ出る。
あたたかい夜風が頬をなぶるのとは裏腹に、
足裏はひんやりとして冷たくて、
私は今、生きているのだと思った。
すっかり暗くなった夜空に目を凝らせば、
星が瞬くのがわかって、
私はほっと胸を撫でおろした。
「星がみえるね」
そう言いかけて、口をつぐんだ。
薄い月明かりに照らされた彼女の目に、
光るものを見た気がしたから。
たぶん、彼女が見ていたのは、星でも、青い蝶でもなかった。
もっと美しく、ずっと儚いなにか。
誰にも触れられない、
彼女だけのもの。
青い蝶を見ることも、
星を見ないこともできる彼女の目に、
この世界はどう映っているんだろう。
永遠に知ることのできない問いを
胸に浮かべながら
夜空を見上げていると、
視界の端で星が駆けた。
一秒もない、一瞬の輝き。
静かに燃え尽きて、あとには何も残らない。
ちいさな星屑がひとつ、
忽然と姿を消したというのに
夜空は落ち着き払って輝きつづけている。
それはまるで
誰かがいなくなった後の世界のようで、
私は鼓動が速くなるのを感じた。
私たちの人生はおおよそ流れ星のようなものだろう。
一瞬を生きて、生きて、生きるだけ。
光は止まることを知らず、
星が終わりを知ることもない。
儚いと呼ぶにはあまりに力強く、
永遠には程遠い存在。
ただこの光を忘れない人がいるのなら、
何度も目の裏に浮かべて微笑む人がいるのなら。
それは永遠とも言えるのだろうか。
.
瞼を閉じても、目の前の夜空はたしかに煌めいていて、
私は時を戻して流れ星をもう一度眺めることもできた。
大丈夫、大丈夫。
あの光はたしかにそこにあったんだ。
胸に刻みつけるように、瞼の裏に光る星の輪郭をなぞってゆく。
途方もなく広い宇宙の、
ちいさなちいさな星くずの光が
何光年も離れた私の心に届くなら。
隣で微笑んだ彼女にとって、
彼の存在を感じることほど、
苦しく易いことはないはずだ。
青色の蝶に、
新緑の樹に、
透きとおる風にだってなって、
彼女の側にい続けるんだろう。
ゆっくりと瞼をあけると、
月が雲から顔を出し、夜空を明るく照らしていた。
「綺麗だね」
やさしい声に応えるように、
ひときわあたたかい風がふわりと吹いて、
彼女の髪を持ち上げた。
fin.
筆者より
2022 年 9 月末から、夫と二人、会社を辞めて世界を旅している者です。
( 「Mild Adventure」という名前で、インスタグラムと YouTube をメインに発信しています。)
メキシコで出会った素敵な女性との思い出を残したくて、久しぶりに書いてみました。
(本当はたくさん書いてるんだけど、 なかなか公開の勇気を持てずにいる・・・)
旅をはじめて Instagram や YouTube ではたくさん発信しているけれど、
こうした繊細な心の揺れを伝えるのは、
動画や写真ではどうにもこうにも難しくて。
やはり言葉に勝るものはないなと思うのです。
少なくとも、私にとっては。
最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。
これからも旅のなかで感じたことや気づきを
「エッセイ」というかたちで、
みなさんと共有できたらと思っています。
写真や動画もいいけれど、
やっぱり私は言葉が好き。
心に届いたよって方は是非、
note の「スキ♡」やコメント、フォローで教えてください。
(「言葉」で感想を教えてもらうのが一番楽しく、自信にもなって嬉しいです…! コメントはもちろん、Instagram や Twitter の DM も大歓迎です。)
大切な人をなくした人も、
今そばにいる人も、
あなたの側に、やさしさやぬくもりが届きますように。
さみしい気持ちになったら、
文中で登場する、彼女の一番好きな曲を聴いてみてください。
癒されることがあるかもしれません。
Mariposa Azul (Acoustic Version)
by Luz Pinos