私の音楽

昨日は、高校生の時コロナの影響で出来なかった演奏会を復活させる演奏会がありました。

本当はその演奏会で部活を引退する予定だったけれど出来なかったので、昨日やっと高校の部活を引退することが出来ました。

これはこの先長く続いていく私の音楽人生のなかでも大きな出来事だったんじゃないかなと思っていて、だからここで私の音楽について少し言語化しておきたいなと。


突然だけれど私の音楽人生を変えた言葉を1つ選ぶとするなら、私は迷うことなく中3の合唱コンクールがあった日放課後の廊下でほぼほぼ新任みたいな若い男の先生にもらった言葉を挙げる。

「体全部でピアノを弾いているみたい」

すごく嬉しかった。
その日の合唱コンクールでは、当時勝手にライバルだと思っていた子に伴奏賞を取られ、悔しい思いをしたのだけれど、私の演奏は賞は取れなくてもそんな風に人の目に映っていたのかと思ったし、この言葉は賞を取れなかった悔しさを上回る嬉しさを私に感じさせた。

それから私は「上手い」演奏を目指さなくなった。
もちろん奏者として技術というのは必須の要素だと思うから手を抜くことはしないけれど、あの時もらった言葉が嬉しかったから、また他の誰かからもそんな嬉しい言葉をもらえるように。

どこかの誰かに届く音楽になるように。

そうなることを目指す過程で、私にとって音楽は目的ではなく手段になった。

上手に演奏することを目標にしていないから、出来るようになりたい技術とかが存在していなくて、誰かに何かを伝えるために届けるために、音楽があるようになった。

(だから気持ちの通りに動いた結果がその歌と振り付けになったような、そんなパフォーマンスをする人のことを大好きになった。)

私にとって音楽は、一種の言葉だ。

伝えたいことがあるのに言葉が分からなかったら辞書を調べるように、伝えたいことを伝えるための技術がなければその技術を身につける。

特段楽器が上手いわけではないけれど、それでも奏者として求められる上手さはそうやって育ててきた。

中3で音楽に対する考え方が変わってから約2年が経って高校2年生になった頃、所属していた吹奏楽部で出演した近隣高校の吹奏楽部が集まるような音楽会で他の学校の生徒さんからもらった感想用紙に「グロッケンの人が体全体を使って叩いていて良かった」と書いてあるものがあって、新しい方向性の音楽が自分にも馴染んできたのを感じた。(私は主にピアノと打楽器に縁がある人生なのだけど、1回目はピアノで貰ったその言葉を打楽器でも貰えたことも嬉しかった。)

その頃くらいから私が出る演奏会を見に来てくれた家族や知り合いに「楽しそうに演奏するね」と言われることも増えた。

その言葉は「上手だね」の何倍も嬉しくて、上手さを目指していた頃の何倍も私は音楽が好きになった。

そんな私の音楽のひとつの集大成とも言える今回の演奏会は練習の最初から本番の最後までずーーーっととにかく楽しくて、今回私が誰かに伝えたかったメッセージは「音楽って本当に楽しいんだよ、誰かと一緒にやったら1人の何倍も楽しいんだよ」ってことで、それを伝えるための手段として時に時間を夢に見て眠るような、時に全ての楽しさを押し出して踊るようなパフォーマンスを使いたかったのだけれど、私は使いこなすことができていたかしら。ちゃんと誰かに届いたかしら。

せっかくの集大成だもの、それができていたら嬉しいな。

これから先の私は誰に出会って、何を思って、それを伝えるためにどんな音楽を奏でるのだろうか。

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