risA
ぽえまーーーーーー
ぶろがーーーーー
将来はコピーライターになりたいなと 言い始めたのが ちょうど高二くらいだった気がする。 理由は単純で、 高一の冬にキャッチコピーのコンクールで 応募総数のうち0.07%くらいしか取れない賞を 受賞させてもらって、 小学校の時の作文コンクールとかも 賞とってた部類だったので この分野なら自分いけるかも、と思って コピーライターなりたいと言うようになった。 そこに新しい夢が加わったのは いつだっただろうか。 高三なのは確かなんだけど。 作詞家になりたいと思うようになった。 コ
昨日は、高校生の時コロナの影響で出来なかった演奏会を復活させる演奏会がありました。 本当はその演奏会で部活を引退する予定だったけれど出来なかったので、昨日やっと高校の部活を引退することが出来ました。 これはこの先長く続いていく私の音楽人生のなかでも大きな出来事だったんじゃないかなと思っていて、だからここで私の音楽について少し言語化しておきたいなと。 突然だけれど私の音楽人生を変えた言葉を1つ選ぶとするなら、私は迷うことなく中3の合唱コンクールがあった日放課後の廊下でほぼ
10年前に書いた10年後の自分への手紙を発掘した。 「世界を変える!」かぁ。 素敵な夢だね。 今の私は胸を張って世界を変えるなんて宣言できるような人間じゃなくなってしまったけれど、それでも根っこの部分はずっと変わってないんだななんて思った。 目の前にいる人も、そうじゃない人もみんな笑っていて欲しくて、だから誰かといる時の私や人に見せる私はずっと笑っていて、強くて、いつだってポジティブな私でいたくて。 これは数年前の私が作った歌の歌詞なんだけれど、そんな私を貼り付けて
「なんとなく」を大切にしたい なんとなくやりたいとか、 なんとなく似ているとか、 なんとなく綺麗だとか、 なんとなく欲しいとか、 なんとなく好きだとか。 なんとなく、きっと、思ったよりも信じられる気がする。
僕は僕をひとつも好きになれないけれど ひとつ好きになれることがあるとするなら 「君を好きな僕」なんじゃないかと思って、 でも僕は恋に蓋をしてしまっていて 恋だと認めることが出来ないから まだもう少し僕を好きになるのには時間がかかりそうってことかもしれない 恋だと認めるには申し訳ないぐらいに君は眩しい
私は人間なので、自分の嫌いなところのことばかりに目が行ってしまうことってすごく多い。 でも今日は少しだけ自分の好きなところの話をしてもいいかな。 私は誰かのことを一生懸命想う時間が好きで、自分のそういう所は結構好き。 私の笑顔の材料は誰かの笑顔で、大切な誰かが笑ってくれると嬉しくなって私も一緒に笑う。大切な誰かが笑ってくれるかなって考えるだけで楽しみになって笑う。 何か誰かに話せるような面白いことないかなって探すことも好きだし、面白いことを考えるのも好き。 同じ理由
音楽は自由だから、 私は音楽の自由なところが好きだから、 あなたが何か感じた音楽があるなら それはれっきとした音楽だから、 あなたとたった2人、 それを音楽として愛したいと思っている。
ここ最近ずっと心が不安定で、 自分でも自分の心の何がどうなっているのか ずっと整理できずにいた。 それがつい先日 当社比で久しぶりに話した気がする人からLINEが来て 「大丈夫じゃない」ってちゃんと言うことができて その人は「自分になにかできれば」と自信なさげに 言っていたけれど それで私が行きたいと言ったところに対して 「行くから安心してください」と言われて その安心してくださいは 「行ってくれないんじゃないか」と思わないで欲しい という意味の安心してくださいだったのだと
好き。 すごく、好き。 私の”好き”は少し大きすぎるのかもしれない。 だから苦しい。 自分が持っている”好き”をそのままぶつけたら多分迷惑になる。 だからといってどのくらいの”好き”なら受け入れてもらえるのか、 その許容範囲を私は知らない。 それでどうしようもなくなって、 一人殻の中に閉じこもって「どうすればいいの」って 頭を抱えてうずくまっている。 自分が傷つくことより君を傷つけたくないって、 窮屈な”好き”のなかで勝手に苦しんでいるだけ、 私が。 殻の中は
すごくポジティブな意味で、人の気持ちを理解することは出来ないと思っている。 それぞれ抱えているものも生まれ育った環境も違うのだから感情の出処だって同じなわけがなくて、だから私は私以外の人の気持ちを理解できないし、私以外の人は私の気持ちを理解できない。 私はこう考えているけれど、でも人の気持ちに寄り添うことぐらいなら出来るとも考えている。 私はあなたのことを分かることは出来そうにないけれど、何があっても、もしも身体がそばにいられなくても、せめて心はずっとあなたのそばにいる
以前、「絶望の0秒前」というタイトルのnoteで 「私は早く死ぬと思う」という主旨の話をした。 その思いは今でも変わっていない。 しかし最近少しそこに色が加わった。 当然のように「長生きする」と言ってのける人がいて 当然のように言うからとても嘘だとは思えなくて 私もその人と できるだけ長く一緒の時間を過ごしたいと思ったから たとえ短くても 1日でも長く生きられたらいいなって 思うようになった。 こういう自分の小さな変化が 嬉しかった。 ありがとう。 恥ずかしいから
もやもやしている。 輪郭のない話だから言葉にするかどうかもものすごく迷ったのだけど、とにかくもやもやしている。 だからこれは言語化というか文字起こし。 なんかその、私は何にでも思い入れを持つ傾向があるのか、私がとっても大切にしていたものが他の誰かや相手にとってはあんまり大切じゃなかったのかもしれないって思うことが結構ある。 うーん、私はそういう話をしたいんだっけ。 分からない。 もやもや。 なんだろう。 忘れたくないのかな。世界が忘れかけているものを自分だけが
・ありがとうとごめんなさいを言える人 ・手を差し伸べられる人 ・“想像以上”を与えられる人 ・面白い人あ ↑ちょっと待って「あ」ついてたの今気づいたけどかりんあみたいで面白いからそのままにしておきます(追記) ・よく笑う人 ・置いていかない人 ・話しやすい人 ・気づける人 ・努力できる人 ・他人を大切にできる人 ・自分を大切にできる人 ・感動できる人
このアカウントでnote書くの久しぶりすぎて書き出しが分からなくて顔ない。 ちょっと前に珍しくスペースでちょっとだけスピーカーになってオタクと話していた時に「(任意の私の呼称)はわざと考えていることとか悩んでいることを言っていないように見える」的なことを言われ、ガチはいになったことがあった。 自分でも自覚はあった。 意識してそうしているというよりは、そうしている方が楽だからそうなっている。 私は脳内ストレージがたいして大きくない人間なので、別のことを考えればその間は辛
言葉は無力だ。 いや、無力と言い切るのは言葉に失礼かもしれない。 微力ぐらいだ。 言葉は全てを伝えきらない。 どんなに伝えたいと思っても、伝えきれない。 言葉は形のない感情に無理やり輪郭をつけてしまうから。 それでも何とか伝えようとして、 0よりも1に、1よりも1.1に近づけようとして、 試行錯誤するのが言葉の醍醐味だと思うし 人間の愛おしさだと思う。 ふと考えたことを言語化しようと試みてみたけれど多分この思考も100伝えることは不可能で、とっても難しいから、楽し
私は言葉が好きだけれど 時に心情は 自分の言葉で表さずに 音楽に任せた方がいいと思うことがある。 自分の言葉はいくらでもネガティブになれるし ポジティブを繕うこともできるが 音楽はなんかそれなりにそれなりの結論に 持っていってから終わってくれる。 音楽は選曲の自由はあるけれど 結論の自由を私にくれない。 でも、そのくらいの縛りが私にはちょうどいい。 そんな私の最近はこの歌に任せている。 櫻坂46「隙間風よ」 草々