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私はゼツメツしない。
当時わからなかった言葉の意味、本の意味が、突然ある日はっ!とわかることがある。
私が最近「はっ!」となったのは重松清さんの『ゼツメツ少年』。
高2ではじめて読んだ本で、とてもおすすめなのでぜひ。
私のnoteもとってもとっても読んで欲しいのだけど、ネタバレどころか解釈の誘導になるので、一旦みなさんポチッとして読んでみてください。
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タイトルにある通り、この話は「ゼツメツ」しそうな子供3人が中心で進むストーリー。
「このままだとゼツメツしてしまう」
不登校の親子が集まるイベント出会った3人は、1人が発したこの言葉をきっかけに行動を共にすることになる。
3人はそれぞれ、家族や学校に居場所のない状態だった。
無視をされたり、話してはいるけど相手は「私」を見ていないように感じたり、「自己」を見失いそうな状況。
当時の私も、彼らが生物学的に「死にたくなる(かもしれない)」状況であることは理解できたのだけど、「ゼツメツ」という言葉がもつ複数性が腑に落ちなかった。
私は1人であり、「私が死ぬ」ではなくて「私がゼツメツする」という言葉は矛盾を孕むはずだから。
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私は確かに1人であるけれど、私が「居場所」を求める先は1つじゃない。
複数のコミュニティそれぞれでの「私たち」全員が居場所を失った時、
どこにも「私」を見つけられなくなった時、
「私はゼツメツする」。
これが私が「はっ!」とした「ゼツメツ」の意味である。
学校で無視され、批判され、安心できなくて居場所がなくても、家に帰ったら愛されていると安心できる。
大好きだった人に振られて自分の価値を見失いそうになっても、友達が集まって心配してくれるから、もう一回自分を見つけてまた生きていける。
けれど、家族にも、友人にも、恋人にも、名前がうまくつけられない場所にも、自分の居場所を見つけられなくなったら。
人はどうしたって社会的な生き物で、少なからず自己のことは他者との関係の中で認知する。
だからこそ、居場所を見つけられなくなった私という自己は、例えお腹いっぱいになって今日もあたたかいベッドで寝るとしても、「ゼツメツ」してしまうのだ。
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多くの人が人生で経験するのと同じように、私も何度か自分の価値を見失ったことがあった。
大好きだった場所に居場所がないように感じて、そこにいる人たちの目線が怖くて、考えていることが怖くて、一緒にいるだけで動悸がして、息が浅くなる。
そんな時、そんなことを伝えて、愛情と安心をくれた人たちがいた。
最後にそれが起こった時に、もらった安心と愛情は今でも大切な大切なお守りだ。
「彼女たちがいたら、私は絶対にゼツメツしない」
当時感じた大きな安心感や、
「だから今日も私は私らしく生きていい」という勇気は、
きっと、そういうことだった。