こうなったらいいなあって思うことについて
このお正月、docomoのCMで、すごいのを見た。
味覚共有技術。味覚共有スプーン?
そのスプーンを口にあてると、テレビ画面で彦摩呂が食べてるお料理と同じ味覚を味わえる、というやつ。
綾瀬はるかちゃんが出ていた。
これってすごいことじゃないですか?
このシリーズにはほかにもピアニストと同じ指の動きができる自動ピアノ演奏とかもあって、それを見た時もすごいと思ったけれど、味覚共有スプーンは私の中では衝撃だった。
誰にでもあるのでは。
テレビで見るグルメ番組とか、それこそ彦摩呂や石ちゃんの食レポとか、ゴチとか見てて、あ〜、これおいしそ〜、腹減ってる今すぐに食いたい、みたいな時。
それが味わえる日がもうすぐ来るのかもしれないって考えるとわくわくする。
あれは味覚を分析して、同じ味を再現するの?
だから味覚を感じるだけで、腹はふくれないかもしれない。
上手に味付けできるスキルは必要なくなるの?とかの話も出てくるかもしれない。
でも、共有できるって何かわくわくする。
小さい頃、ピンポンパンっていう子供番組があった。その中で番組に出演した子供たちは最後に大きなおもちゃをもらっていて、当時の私はそれがとてもうらやましかった。
テレビの中に入りたい、って本気で思っていたし、番組のお姉さんがテレビから手を突き出して、私におもちゃをくれないかと、今日はくれるんじゃないかとか本気で思っていた。
テレビの中に入りたい、とかテレビに映ってるのと今すぐ同じものが食べたい、とか、子供みたいな思い。
物理的にあり得ないよ、ムリだよって言われるようなこと。
でも、全ての技術はそんな子供みたいな思いが原動力になってるんじゃないかなって。
空を飛びたい、海の向こうが見たい、宇宙に行ってみたい。
今の便利は全部、こうだったらいいなあっていう純粋な思いがスタートだったんじゃないかなって、そんなことを思った。
やっぱり小さい頃、テレビに途上国の子供が映ると、栄養失調でお腹が突き出た子供とか、衛生状態のよくない様子とか、そういうのを見ると、母は必ず言っていた。
ーほら、ああいう所に生まれなくて幸せだろう?
お腹いっぱい食べられること、きれいなお家に住めること、両親がそろっていること、戦争とかなくて、学校に行けること。
それはもちろん幸せなことに違いなかった。
でも、ああいう所に生まれたことを幸せじゃない、って決めつける、母の浅さ、あるいは上から目線が私はイヤだった。
その後に付け加えられる、だからもっと頑張らないといけないのにお前は、っていう小言だったり無言の圧だったりがもっとイヤだったのかもしれない。
欲を出しちゃいけない、みたいなことを言われたりする。
今ある幸せに感謝して、足ることを知って、身のほどに合った生活をして、それが美しいっていう価値観。
それも美しい。
そう生きなきゃいけない時もある。
でも、もっとほしい、もっとこうだったらいい、っていう思いも絶対大事だと思う。
こうなったらいいなあって考えただけでわくわくすることだったり。
あるいは、もっと切実な、心の渇き、切望みたいなものだったり。
それは、誰に何を言われようと、望んでいいと思う。
ほら、世界にはこんなに大変な人がいるんだよ、そんな子供みたいな夢想をしていないで、世の中のためになることをやりなさい、祈りなさい、って押し付けられる筋合いなんて、全くもってないはずだ。
世界がどうであろうとも、私の心は私が守る。
私の心が大事だと思うものを私は今日も大事にする。
その人に実現できることだからこそ、空想できる、イメージできる、って聞いたことがある。
だから、どんどん実現したいことをイメージしていけばいいと思う。実現した時のわくわく感や充実感と一緒に。
心の中は自由だから、誰にも邪魔されないから、バカみたいな、子供みたいな憧れを、身の程知らずの願望を、私は持ち続けたいと思う。
思い続けることがきっと現実を変えてゆく。