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『フーバニア国異聞』の風景。

拙著《フーバニア国異聞 水の国の賢者と鉄の国の探索者》は異世界ファンタジーです。舞台は架空世界の国、カリカテリア連合王国とフーバニア国。架空ではありますが、モデルとなっている国と地域があります。カリカテリアは「連合王国」と付いていることからすぐ英国がモデルだと分かりますよね。問題はフーバニアの方。アイルランドではないか、というご指摘を受けたことがありますが、実は違います。

フーバニアのモデルは、ダートムーア。英国南部デヴォンの広大な荒れ地(ムーア)です。2003年にここを旅行して、強い印象を受けたことが異形の地フーバニアを生み出す切っ掛けになりました。

「荒れ地」というと、砂漠や乾燥地帯を連想しがちですが、英国の「荒れ地」は湿地なのです。大地は何千年何万年の間に積み重なった水草と地衣類で出来ており、根を張れないので大きな木は育たず、地平線まで草原とヒースが広がっています。

ここを訪れたのは9月で、滅多にない素晴らしい好天に恵まれました。

ムーアの真ん中は、本当に空と大地しかないのです。ちょっと人生観変わりますよ……天気が良ければ。

荒れ地はダートムーア国立公園になっており、自動車道路がムーアを横断しています。点在する町の一つプリンスタウンにはドイルの「バスカヴィル家の犬」に出てくる刑務所があります。刑務所博物館もあるそうですが、時間がなくて寄れませんでした。


ダートムーアのストリートビュー。

https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3/@50.53694,-4.007309,3a,75y,298.06h,90t/data=!3m4!1e1!3m2!1sf8vCFEWtVoZ8saoNwGPExQ!2e0!4m7!1m4!3m3!1s0x486d00cf28cd19ff:0xb6f41325fa1a8bc1!2z44OA44O844OI44Oi44O844Or5Zu956uL5YWs5ZyS!3b1!3m1!1s0x486cf7164c0aa8c9:0x981056eab25309f4


荒れ地のあちこちから水が湧き出し、集まって小川になる。泥炭と地衣類の層を通ってくるため、水は清く磨かれている。



ムーアに放し飼いにされている羊。こっちを睨んでました。


ヒースと牛。ヒースの季節には少し遅かった。


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『フーバニア国異聞 水の国の賢者と鉄の国の探索者』



《フーバニア》という地名は《フーブ》という言葉が元らしい。地元の古い言葉で、『ふにゃふにゃした』とか『水っぽい』というような意味だ。
 フーバニアは、とにかく雨が多い。一年中深い霧に覆われ、雨の降らない日がない。土壌が多量の水分を含んでいて麦も穫れない。そんな土地だ。
 地理的には干潮時に歩いて渡れるほどカリカテリアに近いが、自然や気候風土は全く違うという。そして大カリカテリア連合王国の領土ではない。カリカテリアは過去に何度か武力による併合を試みているが、その都度失敗に終わっている。カリカテリアによる最後のフーバニア征服の試みは六百年前のことだ。
 大カリカテリア連合王国と比べたらそれこそ罌粟粒のように小さいフーバニアが、なぜカリカテリアの進攻を退けることが出来たのかは謎とされている。
 一般には、遠征失敗の理由は『雨のせい』だと言う。あまりに雨が多く、冷たく湿っぽくじとじとしているので兵の士気が上がらず負けたのだというのだ。
 行ってみたら征服するほどの価値がなかったので引き返したとする説もある。
 いや、フーバニアには恐ろしい妖術使いがいて、その呪いによってカリカテリア軍は打ち負かされたのだ、と言う者もいる。
 本当の理由は判らないが、とにかく《フーバニア》と呼ばれる小さな島国が歴史始まって以来一度も他国の支配を受けたことがないのは事実だった。
 六百年前の最後の進攻失敗のあと、当時のカリカテリア王国はフーバニアと相互不可侵条約を結んだ。その文言は極めて単純なものだ。
——カリカテリアはフーバニアに、フーバニアはカリカテリアに足を踏み入れてはならない——
 条約の文言の『カリカテリア』『フーバニア』はそれぞれ地理的・民族的な国体そのものを指すと解釈され、だから当時のカリカテリア王国が現在の大カリカテリア連合王国に変わってもこの条約の有効性は損なわれていない。
 そしてこの文言に対するに違反があった場合、侵害を受けた側は相手方の領土に対する領有権を主張することが出来ることになっている。
 一見するとこの条約は双方に平等であるように見える。しかし、歴史上フーバニア側がカリカテリアに攻め入ったことなど一度もないわけだから、実質的には一方的にカリカテリアが拡張の野望に釘を刺されたことになる。
 大カリカテリアとしてはいささか不名誉な条約というわけだ。
 そういう歴史的経緯があってカリカテリアはフーバニアを無視することに決めた。水っぽすぎて麦も穫れない土地など、わざわざ足を踏み入れてつま先を濡らす価値もないというわけだ。国家レベルでも個人レベルでもそれがフーバニアに対するカリカテリアの標準的態度になった。
——フーバニア? ああ、取るに足らない辺境の野蛮な島だろう。考える価値もない土地さ—— 
 そんなわけで、現在に至るまでフーバニアとカリカテリアの間には国交はない。フーバニアと隣り合った西部沿岸地方との間で細々としたバーター交易が続いているだけだ。それも、向こうの商人が砂州を渡って持ってくるものをカリカテリア側の海岸で商うだけで、カリカテリアの商人がフーバニアに行商に行ったという話はまず聞かない。
 フーバニアに足を踏み入れようなどという酔狂なカリカテリア人はいないのだ。誰も行かないので、七百年の間にフーバニアに関するカリカテリア人の想像にはどんどん尾ひれがついて膨らんでいった。

 曰く、フーバニアには魔物や怪物が溢れている。
 曰く、フーバニアには馬をも呑み込む底なし沼がある。
 曰く、フーバニアには歩く森がある。
 曰く、フーバニア人は人食い人種だ。

 フーバニア人は沼の悪魔を奉じている。邪悪な魔法を使う。沼の悪魔に人身御供を捧げ、地上にはその幽霊が徘徊している。フーバニアの霧が一年中晴れないのは妖術使いが霧で島を隠しているからだ——。
 こんな調子だ。非科学的なことこの上ないが、けっこうな教養のある人間でも本気で信じていたりする。子供を脅すのにもちょうどいい。悪い子は攫われてフーバニアの妖術師に売られて魔法で牛や馬に変えられて一生こき使われるからね……という脅し文句はカリカテリアの親たちの常套句だ。

 海霧が冷たい手のようにふわりと頬を撫で、エラードはぶるっと身震いした。
 どうして自分にこの仕事が回ってきたのだろう。
 行きたがる者がいなかったということは想像がつく。だが、軍人でも科学者でもない画家の自分になぜお鉢が回ってきたのか。科学アカデミーに在籍している友人の誰かが上層部に進言したのかも知れない。だとしたら、余計なお世話だ。
 ひと足ごとに濡れた砂がきしきし鳴る。星の形のヒトデがゆっくりと這い、水溜まりに取り残された魚が跳ねる。
 向こう岸はまだだろうか。もう随分歩いている気がするのだが。前を見ても後ろを見てもミルクのように濃い霧ばかりで陸地は見えない。じっと砂州の道を見つめていたら、ふと気になった。
 なんだか随分と道幅が狭くなったような……。
 そんな筈はない。《フーバニア地誌》によればフーバニア側の海岸までは一哩ほどの距離だ。干潮の間に十分渡り切れる筈……
 次の瞬間、白い波が牙を剥いて両側から押し寄せてきた。
 嘘だろ、おい!
 エラードは脱兎のように駆け出した。が、背嚢が重くて思うように前に進まない。海水は砂を削り取り、道はどんどん細くなっていく。 
 懸命に走りながら顔を上げると、薄れかけた霧の向こうに巨大な山塊のような陸地がぼんやりと姿を現し始めていた。
 ありがたい! 陸だ!
 ばしゃばしゃと海水のしぶきをあげ、砂浜へと駆け上がった。振り向くと一瞬前まで砂州だったところは泡立つ波に洗われている。砂州は既に海面から一呎ほど下にあり、見る間に深く沈んで行く。
「ここは……フーバニアなのか……」
 走る方向を間違えていない限り、そうだ。
 海辺に広がる草原を茫々と風が嬲っている。
 来たんだ。不本意ながらもフーバニアに第一歩を印したんだ。
 それにしてもあの道は絶対一哩なんてもんじゃなかった。三、四哩はあった気がするのだが。
 内ポケットから《フーバニア地誌》を引っ張り出し、《距離》の項目をもう一度よく眺める。
——カリカテリア領内の最寄りの海岸からフーバニアまでの直線距離は一哩である——
「……『直線』距離ってなんだよ……道が曲がって現れた場合の距離は書いてないじゃないか」
 砂の道なんてまっすぐに繋がる筈がない。なんて役に立たない本なんだ。投げ捨てようかと思った。しかし、フーバニアに関して少しでも信頼出来る情報源はこの本しかない。ないよりはマシだ。いずれにしろ、次の干潮まではもう引き返せない。何が何でもフーバニアで一夜を過ごさなければならないわけだ。
 いや、一夜でなく何日も、何週間も滞在しなければならないだろう。任務を達成するまでは。
 生きて帰ったら今度は自分が《新・フーバニア地誌》を書いてやる……。
 それはこんな役立たずの本じゃなく、エラード自身のスケッチによる図版が多数入った美しいものになる筈だ。想像したらちょっとうっとりとなった。もちろん細密な石版印刷に多色刷りだ。いや、初版は手彩色の方がいいだろう。付加価値がつく。
 エラード・グリンリー著《新・フーバニア地誌》。
 フーバニア研究書の決定版と言われるに違いない。そうしたら科学アカデミーの図書館に一冊寄贈するのだ。サイン入りで。
「……絶対生きて帰って本を書くぞ!」
 声に出して言ったのは、自分を鼓舞するためだった。

 エラードは背嚢を背負ったまま海岸の砂地を歩き回った。海岸沿いには背の高い草に覆われた草原がどこまでも広がり、草原の果ては濃い霧の中に白く霞んで消えていた。
 フーバニアの入り口に辿り着いたものの、この先がどうなっているのかは依然判らないままだ。
「ここで野宿しよう……かな……」
 見たところ、この海岸には危険はなさそうだ。とりあえず今日はここで野宿し、次にどうするかは明日考えよう。
 それは良い考えに思えた。急いては事を仕損じる。既にカリカテリア側の海岸で何日も無駄に過ごしたことはこの際考えないことにした。とにかくフーバニアに足を踏み入れたことは確かなのだから任務の第一歩は果たしたのだ。 
 そうだ。上陸したことの証拠にとりあえずここで海岸のスケッチを描いておこう。
 画帳を取り出すため背嚢を降ろそうとしたそのときだった。霧を裂くように奇妙な叫び声が流れてきた。
 キェエエェェーーェェェーェェーェー……
 なんだ?
 目を凝らしたが、濃く薄く流れる霧にすべてがぼんやり霞んでいるだけだ。
 気のせい……だよな……。
 そう思うことにし、荷を降ろそうと再び背嚢の肩帯に手をかけたとき——
 キエエェェェェエエエーーッッッ!
 今度は近かった。すぐ後ろ、と言っていい。
 うなじの毛がちりちり逆立つ。
 見たくない。見たら終わりと言う気がする。
 だが、見なかったらきっともっと後悔することになるような気が——エラードはゆっくりと振り向き、見上げ、そしてあんぐりと口を開けた。
 霧にむせぶ草原の上方に、巨大な鳥の頭がぽっかりと浮かんでいた。
 鳥の頭は、控え目に見積もっても雄牛の頭と同じくらいの大きさがあった。頬から喉にかけては羽毛がなく、ぶつぶつした黄色い肉垂れが震えて垂れ下がっている。巨大なくちばしはプライヤーペンチに似て太く短く湾曲しており、その先端は鉄鉤のように鋭かった。そしてその頭の位置たるや、エラードの身長の二倍以上の高さにある。
 巨大な鳥は熟れたベリーのように厭らしい赤い目でじろじろとエラードを眺めた。後頭部の飾り羽が扇のようにぱらり、と逆立つ。
「キエエエエエエェェェェェェッ!」
 鳥はその巨体に似合わないちっぽけな翼で二、三度ばたばたと羽搏き、それから頭を下げて突進してきた。
「わあああああああああああっ!」
 エラードは一目散に駆け出した。背嚢を降ろす暇はない。重い。重いが、全力疾走だ。
 どっどっどっどっどっ……
 巨鳥が追ってくる。丸太のような足にも拘わらず、すごい速さだ。
 霧の向こうに薄ぼんやりと木立が見えてきた。
 あそこに逃げ込もう! 平原では向こうが有利だが、立て込んだ林ではこっちが有利になる筈だ。
 草を掻き分け、走る、走る。
 ざざざざざざざざざざざざ……
 槌のような足音が間近に迫り、くちばしがカチカチ鳴る音が聞こえる。
 ざしっ!
 衝撃があった。
 やられた……と思った。一瞬、長くもない半生が走馬灯のようによぎる。
 が、どこも痛くないし、生きている。とりあえずそのまま死に物狂いで走り続けた。木立は目前だ。
 カチッ! カチッ! カチカチカチ……
 耳元で鳴り響くリズミカルな死のカスタネット。
 最後の力を振り絞り、エラードは密生した木立の細い隙間に走り込んだ。
「キエエエエエエェェェェェェッ!」
  エラードを喰えなかったのがよっぽど悔しいらしく、巨鳥は林の外を行ったり来たりしながら叫び声を上げていた。だが木の間には入ってこない。木立の狭い隙間では自分の巨体が身動きが取れなくなることを知っているようだ。しばらくそうやって木立の隙間からじーっとこちらを眺めていたが、やがてどすどすと海岸へ戻っていった。
「は……は……残念だったな……」
 ぜーぜーと息が切れる。
 勘弁して欲しい。今日二度目の全力疾走だ。
 やっぱりフーバニアは怖いところだ……。
 それにしてもあれは何だったんだ? 
 あんなバケモノ鳥、見たことも聞いたこともない。鳥は好きだし、自慢じゃないがかなり詳しいつもりだ。博物画家として名を成すことを目指してこんなところにまで来たくらいなのだから。
 大洋を隔てた遥か南の大陸には大きな歩く鳥、ヒクイドリというのがいるという。さっきの化け物鳥は、ヒクイドリに似ていなくもない。もちろん、ヒクイドリより遥かに巨大だ。ヒクイドリは大きいとは言っても人間の背丈くらいなのだから。それに、くちばしが違う。今の奴は明らかに猛禽類の、鷲鷹の湾曲したくちばしを持っていた。ヒクイドリは猛禽類じゃないし、肉食でもない。
 ポケットの《フーバニア地誌》を取り出し、『海岸の生物』の項目を開いてみた。
——フーバニア沿岸部の草原地帯は大型の飛べない鳥、オソレドリの生息域である——
 それだけだった。
 思わず本を投げ捨てたくなった。
 今のアレがソレなのか……?
 確かにあれは大型の飛べない鳥であることは間違いない。ないのだが……他に書きようはないものか? 体高十呎であるとか、物凄く足が速いとか……人間を餌だと思っているとか!
 念のため『森林の生物』の項目を開いてみた。
——フーバニアの森林には危険な生物が多数存在する——
 それだけだ。泣けてくる。
「父上……エラードはなんだか生きて帰れる自信がなくなって参りました……」
 だが父からすると、この任務に成功しないならむしろ生きて帰って欲しくないのだろう。エラードは役に立たない息子なのだし、ほかに立派な息子が二人もいるのだから。
「くそっ……意地でも生きて帰ってやる……」


中央公論新社C★Novelsファンタジア
『フーバニア国異聞 水の国の賢者と鉄の国の探索者』1章より抜粋


表紙とイラスト by えいひ


*現在この本は在庫が少なく入手が難しくなってきているので、興味をもたれた方は電子書籍でお求め下さいませ。各電子書籍ポータルでお求め頂けます。キンドルストア、itunesでも。

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