獣王vs人のこども。
俺は獣の王だ。形こそ小さいが、王なのだ。
獣たちはみな俺を恐れる。
犬たちは俺をみれば尾を後ろ脚に挟み、顔を舐めて臣下の礼をとる。
だが、人間という奴は鈍いのでまったく気づかないらしい。
俺が本当は小さな犬でなく、獣の王だということに。
「あ! わんこだ! かわいい!」
人間のこどもだ。
内心ちっ、と舌打ちをした。
こどもというのはたいした食い物も持っていないくせに、やたらと触りたがる。
俺は見た目だけなら真っ黒な長毛の小さな犬だ。
耳は三角で、脚と大きな尻尾の先だけが白い。額には三日月の模様がある。
人間のこどもが俺をかわいいと言うのは、まあ致し方がない。
実際、俺の見た目は可愛いし、奴らは外見しか見ないからだ。
「わんこーー! こっちおいで!」
無視だ。無視……
だが、こどもというのは遠慮を知らない。
たちまちつかまれ、抱き上げられた。
小さな手が俺を撫で回す。
こら! 気安く触るな!
俺は本当はちび犬ではないのだからな!
「ふかふかだーー!」
もふもふもふもふもふもふもふもふもふ。
俺様は獣の王なんだぞーー!
獣の王に向かってなんたる無礼……!
「かわいい! かわいいよう!」
もふもふもふもふもふもふもふもふもふ。
やめろ! 俺は、獣の王なんだからな……!
もふもふもふもふもふもふもふもふもふ。
やめろと言ってるだろうが! 俺は……獣の王……なんだぞ……
知らぬうちに尻尾が旗のように左右にばたばたと揺れ始める。
ちがう……俺は……俺は……
もふもふもふもふもふもふもふもふもふ。
あー、そこじゃない! そこじゃないというに!
もふもふもふもふもふもふもふもふもふ。
もっと右……もう少し……あーー! そこ……そこ……
そこだーーーーー……………………!
ああああああーーーた、たまらん……
嬉しさが溶岩のように全身を駆け巡る。
やさしい、温かい、人間の手。
人間の手というやつは、犬を掻くためにできているようなものなのだ。
そのとき、俺は一匹の小さな犬だった。
俺はすべてを忘れた。
旅の目的も、本当の主も、きれいさっぱり頭の中から消え去った。
ただただ、人間の手が呼び覚ますよろこびに身を委ねた。
もふもふもふもふもふもふもふもふもふ。
はわああああああああああああ…………
「あ、母ちゃん!」
不意に撫でていた手が離れた。
どうした、こども……もっと撫でて良いのだぞ……
「それじゃね、ばいばいね、わんこ」
こどもがぱたぱたと駆けていく。
俺は茫然とこどもを見送った。
ほどけた黒い毛糸玉になったような気分だった。
こどもは母親と手を繋いで歩いていく。
行ったか……
一抹の寂寥感が俺の胸を去来した。
ふん……
こどもが寂しそうだから撫でさせてやったのだ
人間のこどもというやつは、ひとりでは生きられない生き物だからな。
起ち上がり、ぶるぶると身震いして乱れた毛並みを整えた。
いつまでも人間のこどもなんぞに構ってはいられない。
毛並みが乱れたままでは本当の主に出逢ったとき失礼にあたる。
(よし、行くぞ)
本当の主を捜し出すその日まで、俺の旅は終らないのだ。
fin