大人になるための日食なつこ。【ヒューマン】【青いシネマ】【少年少女ではなくなった】
日食なつこというピアノ弾き語りアーティストがいる。
彼女の曲の魅力は、歌詞だ。
独特なピアノの伴奏も諦観したような少し低めの歌声も素敵だが、それらがさらに歌詞を引き立たせている。
私は家事や移動をしている間に音楽を聴くことが多い。しかし、彼女の曲は、歌詞の鋭さゆえに「ながら聞き」をすることが難しい。聴いているうちに歌詞が刺さって手が止まってしまう。それくらい心を掴んで離さない力がある。というより、心臓を鷲掴みにして曲の世界に引きずり込む、という方が正確かもしれない。
私はもう、料理をする間に日食なつこの曲を聴いているのか、日食なつこの曲を聴く間に料理をしているのかよくわからないし、徒歩の移動中に日食なつこの曲を聴いているのか、日食なつこの曲を聴くためにあえて徒歩を選んでいるのかよくわからない。
この人の曲作りの根底には何があるのだろう、と考えながら聴いていると、初期の曲には「大人になることへの憧憬と拒絶」が描かれているものが多いと気づいた。今の私と同じ20歳前後に書いたから、考えていることが近かったのかもしれない。
「大人」をキーワードに、特に好きな3曲を紹介したい。
ヒューマン
歌い出しから独特の世界観に引き込まれる。
ピラミッドの頂点に君臨する私たち人間は、唯一言葉をもつ種で、高度な知能をもつ。けれども、それ故に他人を傷つけてしまったり、自分の言葉で自分を雁字搦めにしてしまったりする不器用な生き物でもある。
蝶や魚や鳥が身軽に生きている、なんて考えたことがなかった。
彼らは、自意識を拗らせて他人にうまく話しかけられなかったり、「何者かになりたい」と憧れの人の表層だけを真似したり、毒にも薬にもならない人間になってしまったことを悩んだりすることはないだろう。
「一つの正義さえ続かない」
たったひとつ貫き通すと誓ったことであっても、わずかな失敗でポキッと折れてしまうこともある。首尾一貫して突き通せることも大事だけれど、過ちに気づき、迷うことも必要だ。。
よくある厨二病だが、ロックスターは27歳で死ぬというし、私も高校生の頃は30歳くらいで死ねればいいと思っていた。日食なつこ自身もそう思っていたらしい。
20歳を過ぎて身体機能はどんどん衰えてゆくのに、長生きしてどうするの?
できないことが増えてゆくことに向き合うことは辛くないの?
今が人生の最盛期ならば、ここからずっと下り坂なの?
身軽に生きることのできない私たちは、いったいあとどのくらい辛い世の中を生きていればよいのだろうかという不安。老いを見つめ、今後決して上向きにならない身体機能への絶望。いっそ30歳でコロリと死ねたなら、寿命を全うできそうなのに。
他の生き物のように、生まれて育って生殖して死ぬだけの短い寿命であったなら考えずに済んだあれこれを、それ以外の余分な時間のせいで考えなければならない。
暇があるから争いが生まれる。
暇があるから悩みが生まれる。
ルーティン的な一生ならば患う必要のなかった困難。
でも長い寿命は、降りかかる困難を乗り越えることを勘定に入れたものであって、私たちにはその力があるとこの曲は歌う。
だから今まで生き延びてきただろう
最後の1フレーズが天才的だと思う。
困難を乗り越えられると信じて、神様が私たちに人間を割り当てた。
この部分も間違いなく素晴らしい。
しかし、万一、そんなことは絶対ありえないけれど、冒頭部分から「〜悩み抜いた挙句に僕らを選んだ」までの歌詞を書けたとして、最後の1フレーズにこれを思いつけるだろうか?
私だったら、「だからこれから一緒に頑張ろう」的な未来に向けて背中を押すフレーズを書いてしまう。けれども彼女は、未来ではなく、過去に目を向けさせることで、聞き手自身が自発的に生を肯定できるように仕向けている。
神様が熟考した証拠に、あなたはこれまでの人生で幾多の困難を乗り越えてきたじゃないか。神様が誤った判断をしたならば、あなたはとうの昔にこの世から消えているはずだ。あなたがここにいるのは、あなたにその力があったという何よりの証明だ。
最後のひと押しは曲ではなく、本人にさせる。
これは日食なつこの曲全体に通底していることだと思う。中盤までは寄り添ったり、突き放したりするが、最後の気づきは本人に任せる。
「エピゴウネ」の「お前が誰より知っている」とかもそうだ。
こんなにも、聴き終わった後に過去も未来もひっくるめて肯定しようと思える曲はないと思う。
「ヒューマン」はまさに、人間讃歌の曲だと思う。
しかもこの曲は、彼女が10代の時に作られた曲だ。その歳でこの人間観に辿り着いていた観察眼と思索の深さには、きっと3回生まれ変わっても届かない。
青いシネマ
ピアノのメロディから心地よく始まる、人生を映画に見立てた曲だ。
最短経路は選ばない。
サビ前に放り込んできた尖った歌詞。
当時の彼女の周りでも、そして今の私の周りでも、最短経路を推奨する空気は色濃い。
けれども、サクサク進む映画はつまらない。当たり前だ。4コマ漫画でいい。
大人たちは、自分と同じような苦労をさせたくはないからと言って、早いうちから情報を与え、選択を迫り、失敗の少ない人生を歩ませようとする。
だけど、今の彼ら(大人)があるのはそのさまざまな失敗や経験のおかげではないのだろうか?浅はかな決断から学んだこと、苦しい経験から身についたこと、手痛い失敗から変われたことなんて山ほどあるはずで、それらがなければ、今現在の自分の立場や考え方はないだろう。
寄り道をしなければ、今とは全く違う人生になっていたかもしれない。もちろん、今の自分を後悔しているなら、後の世代の人々には同じ後悔をしてほしくないと思うかもしれない。けれど、今の自分の姿を受け入れずに、過去を後悔し、叶わなかった未来を夢想するだけの大人の言うことなんか誰も聞きたくない。
最短でなくていい。廻り道も寄り道も人生という名の映画を面白くするものである。その誓いがここで宣言されている。
青春を青い時間と呼ぶのまだはわかる。だが、それを「いつか思い出と名付けて遠くから眺めることになる」と表現する言語感覚…。初めて聞く表現だけれど、誰もがその時間をすぐに想像できる。
日食なつこの素晴らしさは造語能力だ。母語話者でなければ新しい言葉を生み出せないという記事を読んだことがあるが、彼女には日本語を自由自在に使い尽くし、それを違和感なく私たちに納得させてしまう力がある。新語をしれっと含ませることにも、この曲のように物事を巧みに描写することにも彼女の造語能力は生かされている。
どこかのラジオで、英語に頼らない作詞を心がけていると話していた。英語を使えば簡単にカッコよくなるけれど、それに甘んじたくない、と。そのこだわりが唯一無二の言葉選びや忘れられない歌詞につながっているのだろう。
ここが、私が特に好きなフレーズだ。
今、渦中にいる人はとても共感できると思う。
ここでの「遠くから眺める」手段は2種類あると思う。
ひとつは単純に時間が経過すること。学年が上がる、卒業する、引退する、歳を重ねる…。時間が経てば当事者性は薄れ、「そんな時代もあったね」と笑って話せるようになる。これは物理的にしかたのないことで、受動的な手段だ。
もうひとつは、やり過ごし方を身につけること。その場にいながら、知らないふりをして折り合いをつけられるようになる。面倒ごとは回避する。生きるのが上手になる。これはこれで大人になるということなのかもしれない。賢い。こちらは能動的な手段で、即座に遠くから眺められるようになる。
一般的に想像する「遠くから眺める」は前者だろうが、この曲では後者の意味も強く含まれている気がする。
時間の経過は自然な流れだから逃れようがない。けれども、やり過ごす術を身につけることは賢明そうだがちょっと違和感を覚える。
自分の中にあるドロッとした感情はぶつけず、周囲を窺って、衝突を避ける。こだわるのはほどほどにして、みんなの意見を聞いて、「最大多数の最大幸福な解はこんな感じだよね」と言って折り合いをつける。自分を納得させる。
成熟した大人の振る舞いに見えるし、合意形成手法として素晴らしいと思う。
でももっと、エゴ剥き出しで葛藤して、時にはお互いを傷つけあってしまうくらい衝突したらダメなのか?どうせ数年後には、思い出として遠くから眺めることになるのだから。
曲のラストは、未来の、遠くから眺めるようになってしまうであろう自分に対して「戻りたいとか抜かすだろう」と突き放す。
きっと、泣き腫らした夜を過ぎれば、痛みなど忘れてしまうのだ。不器用さを呪って器用さを身につけたつもりが、不器用だった頃に憧れるようになる。皮肉だ。
かくいう私はまだ、渦中にいると思う。し、まだしばらくは留まっていたい。ここにいることは、大人になれていない証なのかもしれないが、早く抜け出して俯瞰することが大人の証とも思えない。
少年少女ではなくなった
しっとりとしたピアノの伴奏から曲が始まる。
いつか自然にやりたいことが見つかると思っていた。
高校生になったら、自然に恋人ができると思っていた。
継続していれば上達すると思っていた。
でも実際、そんな夢想は到底実現しない。夢は夢のまま、自ら動かなければ現実は何ひとつ変わらない。社会や家族のことはおろか、自分のことさえ変えることができない無力さに打ちひしがれ、弱さを知る。
「レーテンシー」では、待ってればいつか、痺れを切らした未来の方からやって来ると歌っている。待ってるだけの無能の面を拝みに。
小さな頃から全く成長のないこの弱さこそ、幼さの証ではないかと突きつけて、サビに入る。
たしかに弱いかもしれないけれど、己の弱さを知ることは幼さの証ではないと言われた気がした。
楽しいことや嬉しいことばかりではないし、幸福や栄光がすべてではない。
鬱々とした日々を抜け出したあと、すべてが解決する訳ではない。すぐに小さな躓きがあって、受け身を取るつもりがその先の小石にぶつかってまた怪我をして、そんなことを繰り返しながら、前に進んでゆくのである。
発表の時系列的には逆だけれど、「青いシネマ」の「僕」が次にぶつかるのはこの曲だと想像する。
今の私は、どちらかと言えば、「遠くから眺める」ことを拒絶して、必死に叫んで自分の正義を突き通そうとしている。嫌なものは嫌だと言うし、間違っていることは常に正した方がよいと意地を張ってしまうこともある。
けれども、それは幼い振る舞いで、自分だけの主張を通せない時の葛藤や躊躇を知ることが成熟することなのかもしれない。
汚れようが正義を連れて行くこと
たとえ、自分は汚れてしまったとしても、どうにかして、なけなしの正義だけは持っていなければならない。
迷いは大人の対極にあるように見える。しかしこの曲は、迷うことこそが少年少女ではなくなることだと歌っている。迷うこと、躊躇うこと、世の機微を知ること、不恰好でも奮闘できること。言い争いになったら、捲し立てて相手を言い負かした方が賢そうに見えるが、そうではない。
だが、小さい頃はダサいと思っていたことが、実は大人の証拠なのだ。
この曲の中では「大人」という言葉は使われない。もしかしたら、少年少女ではなくなってしまったけれど、大人でもない、大人と少年少女の間の、甘えることも甘やかすこともできない、どっちつかずの時期の心情を歌っている曲なのかもしれない。
私はたぶん、「青いシネマ」〜「少年少女ではなくなった」を行ったり来たりしている時期だ。今後はっきりと「少年少女ではなくなった」と言える時が来るのだろう。
以上が私の好きな3曲の紹介です。あくまで私の解釈で、他の人の意見を退ける意図はありませんし、他の記事もたくさん読んでます!
こんなに長い文章を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
日食なつこの曲はYouTubeやSpotify、AppleMusicなどでほぼ全曲公開されているので、気になった方は是非聴いていただきたいです!!!
「缶ジュース奢ってやるか」くらいの気持ちでぜひ!